上野正道『ジョン・デューイ』 / 「冴えない彼女の育てかた」(2014)を観る

晴。
 
スーパー。人少なし。
 
ひさしぶりに深みへダイブしていく。アニメというやつは(もちろんものにもよるが)決して底の浅いものではないな。むしろ、それだから問題になるのだ。
 
 
珈琲工房ひぐち北一色店。
岩波新書の上野正道『ジョン・デューイ』を読み始める。決して読みにくい本ではないが、いまひとつよくわからんな。デューイといえば「教育」だろうが…、わたしには「教育」というものをどう考えたらよいのか、よくわからない。本書で出てくる「旧教育」と「新教育」、前者は「詰め込み教育」で後者は「考える力をつける教育」と乱暴に同一視してもそんなにまちがってはいないように思えるが、デューイはそのどちらかを取るのではなく、双方の弁証法的綜合を狙ったといえるのかも知れない。しかし、そんな観念では、どうもよくわからない(「わからない」ばっかりいってるな)。
 デューイを離れるが、例えば「考える力をつける」って、何だろう。「問題解決能力をつけること」と言い換えても、抽象的すぎてよくわからんよね。いま「考える力」と一般にいわれているのは、所詮「言葉のパズル」を解くだけのことのように思える(例えば分析哲学)。いや、それをバカにするわけではないが、それは結局誰もに「秀才」になれ、ってことだ。そしてまた、世界が記号で覆われていることが、前提となる。しかし、世界を記号で覆い尽くすことは、結局できないのだ。そして、かつての記号論がいったとおり、世界の「記号による切り分け」は、そもそも恣意的なものでもあるし。
 
日本の特殊的な事情として大学教育の職業的レリバンスの欠如(あるいは軽視)なんてのがあるが、デューイなんかだとそのあたりはどうなるんだろうね。ヨーロッパやアメリカでは、そのあたりは自明なことなのか知ら。わたしは高校生のときは物理学者になりたかったのだが、そういう人間だから教育の職業的レリバンスなんて、正直いって頭からすっ飛んでいた。いまでも、似たようなものかも知れない。世間を知らないとはこのことだ。
 
上野正道『ジョン・デューイ』読了。本書から見るとデューイはいつも立派なことばかりいっているいけ好かないヤツという印象だが、それは本書が悪いのかも知れないし、そもそもわたしの読みがまちがっているのかも知れない。仮にわたしの読みが適切だったとして、そういう善良な偉人が社会に必要なのも確かだ。わたしにはデューイっていうと、鶴見俊輔からの先入観があったのだが。

 

 
夜。
冴えない彼女の育てかた」(2014)第12話(最終話)まで観る。あんまりよかったので、残り一気に観てしまった。確かに鈍感主人公のハーレムラブコメだけれど、クリエイターものとして熱く一本筋が通っているのが気持ちいいよね。肉食系女子たちの中にいて、加藤恵はふんわりしていてなかなか内心を見せないんだけれど、やっぱりこのコがメインヒロインになっていくんだろうなあ。続きが楽しみ。