朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』 / 「小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜」を観る

雨。
朝目覚めると、とんでもないところに出てしまう。
 
大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。ホット・スイーツパイ りんご+ブレンドコーヒー415円。老母から廻してもらった、朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』を読み始める。日本人だが在日っぽい名前(その名前と出自ゆえに、日本社会ではなかなかむずかしかった)の著者が、幼い子供ふたりとフィンランドで暮らしてみて感じたこと、考えたことを綴っている。やはりどうしても、わたしの関心は「世界の中で日本人とは何か」ってところへ向かうのだが、興味深い記述が多い。まあ、まだあまり読んでいないので、詳述しないけれども。
 
昼。
図書館から借りてきた、朴沙羅『ヘルシンキ 生活の練習』読了。フィンランド戦争博物館には、「戦争の否定がない」というのがおもしろかった。フィンランドが二十世紀の戦争で戦勝国のせいかも知れないが、日本において戦争はどこか「絶対悪」の雰囲気がある、その感じがないことに、著者はどうしても違和感を覚えているように見える。西洋的には、国家にとって得であれば、戦争も否定すべきでないというのが、ロジックかも知れないとわたしは空想してしまう。もっとも、わたしも絶対平和主義者ではないように自分を感じる、って自分の主張だから「感じる」はへんかも知れないが、わたしにとって絶対平和主義者かどうかというのは、ロジックよりもむしろ感情の問題だ。それは、理性的な態度ではないし、また「理性的でない」というのはわざとやっていることである。当然、論理的な説明はつかない。また、絶対平和主義者ではないけれど、戦争はほんとに嫌だ、戦争は「絶対悪」といっていいと思う。そもそも、戦争で死ぬのは我々庶民なのだから。やはり戦争博物館には、「戦争の否定」があってほしいものだと思うのだ。

 
 
NHK+ で「小さきものの声を聞く〜思想史家・渡辺京二の遺言〜」を観る。昨年になされたロング・インタビュー。注しておくと、ここで「小さきもの」というのは、いたずらに生まれ、死んでいく、無名の庶民のこと。仰ることはいちいちもっともで、感銘した。これまでも渡辺京二さんの寸言には、勇気を与えられたものが少なくない。地方(=その土地)で生きるということ、自然を感受して生きるということ、大したものでもない、無名人として生き、死んでいくこと。渡辺京二さんは力のある知識人であり、もちろん無名人ではなかったが、たぶんみずからをそれと変わらないと考えながら、生きられたものと思う。このロング・インタビューにもあったが、それは吉本さんから受け取ったものでもあろう。わたしは、おセンチなことに、泣くかと思いましたよ、見ていて。