岩城宏之『音の影』

晴。

ウチの裏にある木蓮の落ち葉を掃く。まだあと何回かやらねばならなそうだ。

社会正義を語るある文章をネットで読んでしまって、論調に納得できるところもあったが、全体としていやーな気分になる。いや、社会正義、立派だし、どういう動機でそれを語るのかはどうでもいいといわれるかも知れないが、自分の知力を見せつけたいという欲望が透けて見えて、なんだかなーとつい思ってしまう。社会正義、誰でも語ってしまえるし、また一方で、誰でも語る社会正義にロクなものはない、本をしっかり読んで知力の優れた人間が考えたものでないと、ものの役に立つものでない、という人もいて、いずれにせよいやーな感じ。そして、どちらにせよ、ここでわたしが書いているようなふんわりした文章は、百害あって一利なし、あるいは無意味という対応なんだよね。論理ってのは感情に比べれば雑であるがゆえに、その意味でわかりやすく確実だという点で、多くの人に届く。確かにそれはいいことだ。で、つまるところ、悪貨は良貨を駆逐する。ここでわたしがいっている「悪貨」と「良貨」が何を指しているかは、敢てここでは語らないことにする。

昼から県図書館へ行こうと思って準備をし、そこで図書館の HP を見たところ、長期閉館中だと知って当てが外れる。では、代わりに、というわけではないけれど、市の図書館も返却期限が近づいていたので、こちらを訪れる。特に読みたい本もないのだが、書架の間をぶらぶら歩いて、適当に何冊か借りる。小説でもと思ったのだが、膨大な量の中からどれを選んだらよいか、見当もつかない。ひさしぶりに綿矢りさ、それから新着にあった『李良枝セレクション』(白水社)を借りてみる。

茶店に寄って本を読もうかとも思ったのだが、憂鬱でめんどうくさく、帰宅する。インスタントコーヒー。


図書館から借りてきた、岩城宏之『音の影』(2004)読了。いやー、楽しいエッセイ集、一気に読むとかバカなことをしてしまった。指揮者・岩城宏之(1932-2006)さんの名前は、クラシック音楽好きでないと知らないかな? 本業の指揮以外に、軽いタッチの文章もうまく、かつて文庫本を何冊か読んだことがある。日本エッセイスト・クラブ賞も獲ったことがあるんですよ。わたしにとっては、日本の現代音楽をたくさん初演した指揮者で、武満さんは信頼する指揮者として、小澤征爾と岩城さんの名前を挙げていた。メシアンも岩城さんを信用していたことは、本書の記述からよくわかります。岩城さんの楽しい本から、クラシック音楽に入るというのもとってもいいと思う。
 岩城さんの創立したオーケストラ・アンサンブル金沢がかつてよく名古屋に来ていたから、御存命のうちに聴きに行っておけばよかったのに。わたしは出不精で、いけないなあ。

 

夜。
河合隼雄&柳田邦男『心の深みへ』(2002)を読み始める。副題「『うつ社会』脱出のために」。対談集。本書はだいぶ前に一度読んでいるのだが、そのときは柳田さんに対して(恥ずかしいことに)偏見があって、中身を碌に読めていなかったのである。いま半分くらい(第四話)まで読んだが、驚嘆の連続。第一話は1985年という、もう40年くらい前になされた対談であるが、何も古びていないどころか、いま日本人の喫緊の問題であると思われることが、数々クリアに指摘されている。おそろしいほどの先見の明だ、というよりは、我々の心の深いところは、じつにゆっくりとしか変化しないものなのだなということを思い知らされる。本書は、河合先生の対談本の中でも、出色の出来だろう。わたし個人に関することも、一般論としてたくさん指摘されていて、自分のいま直面している問題がよく見えてきた感じがするくらいだが、まあそれは書かない、というより書けない。中年として、死と向き合うこと、また、自分の「個性化」と時代の関係、とくらいはいえるかも知れない。わたしはよきにつけ悪しきにつけ、「時代の病い」をかなり深く病んでいる人間だと思う、それもちょっと特殊なしかたで。それは若い頃からそうだったのだが、いまでもそうなのだな。

本書は図書館本としてよく読まれてきたようで、それがわかるくらい随分傷んでいる。

そういえば、かつて哲学者の中村雄二郎さんが「臨床の知」といっていたが、そういうことがわたしにもようやく感覚としてわかってきたように思う。我々は自然からひどく遠ざかってしまったが、病気や死と向き合わねばならないときには、「人体という自然」を決して無視することができない。それを「臨床の知」といっていいのだろう、そういうところ以外に、「生きる」ということを我々はもはや忘れているのだ。

河合隼雄先生は、あと50年か100年したら、全集が必要な人だな。吉本さんは奇跡的に全集が出て、ほとんどあり得ないんだけど。中沢さんは200年くらいしないと出ないかなあ。