日野行介『原発再稼働』

雨。
 
行き詰まったとき、閉じていっているときは、劣等感や嫉妬心、シャーデンフロイデなどのネガティブな感情が、突破口になり得るのではないか。少なくとも、何も足がかりがないよりもマシだと思う。
 
D=G が「逃走線を引く」ということを言っていたけれど、味わい深い言葉だな。
 
生だけでなく、象徴としての「死」もまた重要だ。硬直化は、結晶化、ひとつの造形でもある。スタイルというものはつまりは「死」だ。生と死の循環は、個人の精神的レヴェルでも必須である。
 
 
昼から雨の中、ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。外気16℃。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー429円。
『コレクション瀧口修造7』の続き、一時間くらい、たくさんの展覧会批評を読み続ける。70年前の展覧会批評など、読んで意味あるのか?と思われるかも知れないが、わたしに限っては真剣に読む価値があるのだ。瀧口修造と現在は何がちがうか? それは、例えば瀧口の扱っているものは「芸術」「美術」であり、現在に存在しているのは「アート」である、といってみてもよいかも知れない。(ここでいう「アート」は、ひとつの象徴である。)瀧口の根本には、「芸術」の底にはつまるところ何らかの「感動」がある、という核心があるように思える。それはナイーブであろうが、そのようなやわらかい傷つきやすさ、感じやすさこそが感受性なのだ。アートに、そのようなヴァルネラビリティがあるだろうか? 知性による操作。目新しさ。そこには天使が不在なのである。

 

 
日野行介『原発再稼働』読了。承前。読んで感傷的になってしまった。以前半藤一利さんの『昭和史 1926-1945』を読んだとき、昭和の戦争において日本の為政者たちは、「起きては困ることは起きない」と信じ込んで戦争に深入りしていったことがはっきりと書いてあったが、(あれほどの原発事故があったのにもかかわらず、)いまでもそれがまったく変わっていないというのには愕然とさせられる。これが我々日本人の特質だと思わざるを得ない。皆よ、これは自分自身のことなのだ。我々も行政を進める立場になれば、ほとんどの人間がこうしてしまうのはまちがいない。これが日本の「国策」の姿なのだ。いけないこととはわかっていつつ、かかる「国策」に流されていき、辻褄を合わせるために、隠蔽し、国民にウソをつく。そして、仕方がないことで、自分にはどうしようもないと思い込む。我々なら、ほとんど誰でもきっとこうするのだ、これが日本人だ。あー、くさくさする。夜は下らないアニメでも観て現実逃避しよう。
 
 
夜。
ホリミヤ」第9話まで観る。尊すぎて死亡💀
原作者の HEROさんは女性なのかな。まあ偏見かも知れないけれど、何かそんな感じがする。宮村くんがフェアリーのよう。一方で、堀さんの造形は地に足がついているというか。登場人物にやたらと美少年が多いし、そもそも宮村くんが、地味なメガネ君なのが、メガネを取ると超イケメンだとかね。