こともなし

曇。
 
午前中は何をしてたっけ。
 
細野晴臣『Mercuric Dance』(1985)を聴く。天才って言葉は使っちゃいけないんだけれど、細野さん、天才だな。いまや誰も聴かないアルバム、になっているのか? 日本という国は、武満徹細野晴臣を生んだのだった。

 
鈴木大拙の「肘は逆に曲がらない」、わかった気もするのだが、さてどういうもんだか。
 
夕方、電動草刈り機で草を刈る。涼しくなったので助かる。
わたしの誕生記念樹として畑に入れたみかん、夏みかん、金柑に随分と枯れ枝が出てきて、さみしい。柑橘類の寿命は50年くらいという。まあ、これも諸行無常だな。
 

 
ロールズの社会は「地獄」なのか?(読書メモ:『増補 責任という虚構』) - 道徳的動物日記
この人の「社会正義」好きはわかった。わたしは小坂井氏は知らないけれど、ブログ主は小坂井氏が「社会正義」を腐すのに、強烈にむかついているのがよくわかる。
それから。

人間には「対等願望」や「承認欲求」と共に、自分の能力を発揮して他人から抜き出た人間になりたいという「優越願望」が生得的・生物学的に備わっているというフランシス・フクヤマの議論のほうにわたしは同意する。

「『優越願望』が生得的・生物学的に備わっている」というのは、いまのところ生物学的に証明されたわけではないでしょう。これは科学的でないと思う。それから、人に「優越願望」があるということは、「劣等感」もまたあるということだ。たぶんブログ主は「自分の能力の優越性」を強く確信しているという幸せな人で、あまり「劣等感」に苛まれたことがないのだろうな(憶測です)。少なくとも、「劣等感」しかないような人間の苦しさがわかっていれば、書けないようなエントリに思える。つまりは、「強者の論理」に見えてしまうということだ。ま、「強者の論理」で何が悪い、っていわれれば、別に悪くはないんですけれども。
 財の配分を個人の「能力」によって「公正に」定めるということは、もちろん劣位の人間も(また優位な人間も)、一生それを可視化されて生きるということだ。それはいわば「公正な身分制社会」に近い。そこに現れる感情の劇は、劣位者には「地獄」のようなものかも知れない。
 
 
夜。
「魔女の旅々」第12話(最終話)まで観る。お、おう、第9話、グロかった…。全体として、まずまずってところ?

本作の評価をいろいろ見てみたのだが、皆さん、思ったよりずっと高評価が多くて、ちょっと意外だった。一話完結型だけれど、正直いって話はどれも薄っぺらかったと思う。とにかく絵はきれいだった。でもまあ、最後まで観られたわけだしな。