堀田昌寛『入門 現代の量子力学』をざっと眺める / 東浩紀『忘却にあらがう』

日曜日。夜のうち雨。曇。
昨晩は中沢さんの『レンマ学』を読み返して寝た。わたしはこの本の膨大な含蓄のうちほんの一部を受け取っただけだが、既にわたしを根底から支える考え方を補強しているのを感じる。

午前中、ぼーっとする。ごろごろ。


堀田昌寛『入門 現代の量子力学』落掌。一部では「量子ネイティブ世代のための、30年先からやってきた教科書」ともいわれていて、話題になっている。「量子力学素朴実在論ではなく、実験データとそこから読み取れる情報だけを扱う情報理論である」(p.14)というスタンスであり、まずは「隠れた変数」理論を否定し、話を二準位系の量子力学から始め、多粒子、合成系の量子力学から、シュレディンガー方程式などは最後に導くという構成になっている。つまり、進み方が従来とは逆だ。ちょっと見たところではわたしごときに簡単に理解できる本ではないが、とりあえずざっと目を通すだけはしておこう。

 
『入門 現代の量子力学』ざっと眺める。EMANさんが note に書いておられる解説を読む。有料記事、買ったぜ。
堀田量子の初学者ガイド|EMAN|note
 
そういや、昨晩めずらしくもミンミンゼミが鳴いていた。一匹だけ、みーんみーん、と。


東浩紀『忘却にあらがう』を読み始める。五年間の時評集。わたしはいま、著者が何をしているのか、まったく知らない。最初、何とも寒々しい文章だなと感じたのだが、読んでいるうちに確かに感動的なものを覚えた。誰も聞くものがいないとしても、地味に、小声でぼそぼそというべきことをいっている、という感じである。いまや、批評家にできるのはそれしかないのかも知れない。著者には『観光客の哲学』という著書があるが、その言葉に忠実に、クリティカルな場所をよく観光してみせているのにも好感を抱かされた。「観光」といっても、まったくいろいろである。

 
夜。
東浩紀『忘却にあらがう』読了。何というか、暗澹たる気分で読み終えた。東さんはわたしより少し年下で、同世代ということになるのだろうが、古くさい人間であるわたしの実感としては、次世代のトップランナーという感じが強くしていた。新しい時代を切り開いてきた、眩しい存在だった。その人が、日本に絶望した記録なんだろうか、本書は。そして併録されている「平成という病」という、平成終焉時に書かれた文章では、東さんは自分自身に絶望し、極端に自虐的であるように読める。ここには、(もはや)日本を変えようなどとはまったく考えていない、とすら書かれている。もちろん多少の誇張はあるだろう、でなければ本書のような時評が書かれるわけはないからだ。
 本書時評では、また SNS への絶望も感じる。わたしもまた、「うるさいうるさいうるさーい!」とネットを見ていてしょっちゅう思う。膨大な人々がエサを見つけてはネットで極端な脊髄反射を繰り返し、喚き散らし、炎上させ、そしてすぐに忘却する。東さんはそれを「祭り」と呼んでいる。中庸で妥当な意見を濁流に巻き込んで、押し流してどこかへやってしまう。本書の題名の「忘却にあらがう」とは、たとえ無力であってもそれに対抗する、という意味だ。
 理性はともかく、人々の感情が、貧しすぎるとしかいいようがない。本書ではめずらしくもちょっとナイーブに、こんなことが書かれていたので引用しておこう。

最近はみな言葉が汚い。「正義」のためならいくら相手を罵ってもいいし、汚い言葉も許容される。そういう価値観がネットを中心に広まっている。それは左派も変わらない。たしかにリベラルはヘイトを批判している。しかしその批判が罵倒とともに行われれば、右派はますます極端な主張を繰り出すようになる。いま起きているのはそういう悪循環だ。それにマイノリティーが巻き込まれている。(p.223)

理性的な、知的なように見える言説が、じつに幼稚な感情に支えられている。結局、単純なのだ。これがわたしは嫌いだ、敢てナイーブなことをいうなら。これもまた、容易に汚い言葉に帰結する。
 理性的であるのは大切なことだ。しかし、幼稚な人間は所詮幼稚なことしかしでかさない。自戒したい。