お盆

日曜日。曇。
夢で特定の場所の特定の映像が問題になっている。よく思い出せないのが残念だ。その場所は車で行くことができて、一本道の突き当りなのだが、そこまで行くのに道路の通行が左右、めちゃくちゃなのだ。日本は左側通行なのに、正面から平然と突っ込んでくる車があって、右に避け、右をずっと走っていたら、今度はそちらでも正面から突っ込んでくるという。それだけよく覚えている。松の木? 赤い鳥居で、神社のよう? いや、やはりよく思い出せない。樹があったのは確かだ。
 あとは、女性。ユング心理学、いや、河合隼雄先生のいうアニマだろう。これもどういう風だったのか、いまとなってはほとんど思い出せない。何か暗い印象の、黒髪の女性だったか。


お盆。例えば限界集落でひとりで暮らすおばあさんが、ご先祖様がいつも一緒にいらして下さるのだから、ちっともさみしくはございません、という。わたしはそれがわかる気がする。そこでおばあさんは「祖先の霊」の臨在を実際に感じているのかも知れないが、わたしは「霊」というものが物理的に存在すると特に主張したいわけでない。おばあさんの方が正しいのかも知れないけれども、わたしは例えば祖先から繋がる DNA の連鎖が心に跡を残しているのかも知れないとでも思ったり。というのも、まあ言い方はどうでもいいことだ。わたしのまったくの妄想かも知れないし。禅の公案で「父母未生以前の本来の面目」というのは、どういうことかさっぱりわからないが(二元論の克服という「解答」を読んだことがある)、わたしとしてはそんなことに関連あるかのように空想もされる。
 わたしたちはひとりだが、でもひとりではないのかもなという話である。命は祖先に繋がり、子孫に繋がり、それはあらゆる生き物に及んでゆく。もちろん、命というだけで、あらゆる生き物は既に繋がっているわけだが。その総量は増えもしないし、減りもしないということらしい。
 祖先といい子孫といい、現在においては DNA だけで捌かれている。それが本当に科学的なのか。わたしにはどうもよくわからない。


労働は日本では合理的に商品化され切っていない。メンバーシップ型の労働形態にあっては、「仕事」とは曖昧で、はっきりとした輪郭と対価をもっていないものだ。例えば、高度なサービスを安価で提供するという「おもてなし」の精神は、労働が高度に商品化された社会では、端的に「生産性が低い」ということになってしまう。(こういう発想は、わたしは濱口先生に学んだ。)いま日本がそれへ向かって転換しようとしている(?)ジョブ型の労働形態がドラスティックに普及すれば、日本人の「仕事」はいわば大きく「合理化」され、したがって例えばおもてなしの精神はバカバカしいものになるだろう。しかし思うが、それで果たしてよいのか? それは、日本人の考え方をさらに大きく変え、西洋的な合理精神が「東洋の曖昧」をここでも扼殺することに貢献していくことになるだろう。
 しかし、「父性」の導入はある程度已むを得ないことだろうな。おもしろい(?)ことに、例えば日本におけるフェミニズムは、一種の包み込む「母性」の否定、切断する「父性」の導入であったことは明らかで、それもまた必要なことだった。深いレヴェルにおいてであるが。日本における「母性」の強さは圧倒的で、そう簡単に変わるものではないこともまた明らかである。これは、いわゆる母性愛などというものとは、深さのレヴェルがちがうことに注意されたい。

いまコロナ猖獗であるが、妹一家来訪。お盆に来るのは何年ぶりかである。
午前中にお墓まいり。
昼食は皆んなでひぐち。夕方、わたしは少しだけ(下の)甥っ子の勉強を見る。
夕飯はおばあちゃんのご飯で。甥っ子たちも大きくなり、こんなのもいつまで続くだろうかと。ご飯を食べて帰る。

夜。
「鎌倉殿の13人」を観る。あれ、頼家はまだ死なない筈なのになあ、とか思っていたら、今日の最後は凍りつきましたよ。あー、って感じ。毎週目を覆うようなシーンが多すぎる、ってのは一応褒め言葉だが、それにしたってひどい話だなあ。

吉本隆明全集20』をあちらこちら、長時間読む。元気が出る。
吉本さんの正直さは何なのだろうな。思考における誠実さといってもいい。吉本さんというと、傲慢な人間だと思っている人も少なくないだろうが、当然の自負と共に、自己評価の厳しさ、低さにはいつも驚かされる。吉本さんは自分の弱いところを全然隠していないのに、どいつもこいつも見当ちがいのところばかり攻撃しているから、吉本さんはひどく孤独だったのだ。それでも諦めなかったのは、わたしなどがいうのも何だが、勇気づけられるのである。