こともなし

晴。
 
朝日新聞で「吉田秀和没後10年」の連載が始まった。楽しみである。わたしは、吉田秀和さんはジョン・ケージ的転回を肯定しきれなかった人だといまでは見做しているが、それは「音楽評論家」としては已むを得なかった態度ではあろう。ジョン・ケージ的転回は、ある意味で音楽の否定、破壊であるから。しかし、わたしが吉田さんの文章から得てきたものは本当に大きかった。吉田さんは、最後まで現役で同時代最重要の音楽評論家だったしな。吉田さんの文章と出会っていなければ、わたしと音楽の付き合い方はまったくちがったものになっていたにちがいない。わたしの世代は、吉田さんの著作が簡単に文庫本(中公文庫、新潮文庫その他)でたくさん手に入ったそれだが、いまはそのような状況ではない。
 現在において、音楽の否定としての音楽、汚染された耳の開放としての音楽が、重要であるとわたしは思っている。それは端的にいって、矛盾を生きる音楽だ。武満さんの音楽は、そういうことをきちんと織り込んだそれだとわたしは見做している。
 
なお、当たり前のことであるが、吉田さんに比べたら、わたしの耳などはてんで大したことがない。また、わたしは音楽をもっぱら録音で聴く。それゆえに耳もまた「汚染」される。録音で聴く「音楽」は、正確には音楽とはちがうものであろう。
 

 
昼から曇る。
老父と老母が家電量販店に行き、炊飯器と冷蔵庫を買ってくる。最初は炊飯器だけだった筈が、いまの冷蔵庫を使って 20年にもなるということで、冷蔵庫も買ったんだってさ。
 
ひさしぶりに RubyAtCoder