こともなし

祝日(みどりの日)。晴。

qfwfqの水に流して Una pietra sopra」という尊敬すべきブログがあるけれど、今年初めてのエントリが投稿されていることに気づいた。川端康成『雪国』の NHK ドラマを見て、小説の中学生以来の再読をした、という話である。深みに届いた文体で、繊細な読解がなされていて感嘆させられるが、わたしの能力を軽々と超えているので、中身についてはこれ以上書けない。さて、以下個人的な、幼稚なことを書くが、『雪国』の扱う、男女の愛欲そのものは、それは永遠のものにちがいないが、このような形態としては、既に時代遅れというか、ほとんど滅びてしまっているものだ。ブログエントリにも「セクハラ」の文字が見られるが、いまでは男女の性的なあり方というものは、『雪国』のそれを許さないようなそれになっている。つまりは、時代は変わったと、端的にいえばそういうことだが、さて、そうなってしまったところで、いまの世代が川端康成の「名作」を読むのに、対自的かつ対他的に、どれほどの意味があることであろうか。qfwfq氏の丁寧に記しているとおり、川端の記述は、注解がないと今ではわからないくらい、暗示的でもある。確かに、古いものも大事だと、スローガン的にはよくいわれる。でも、古い小説、いや、古い映画でも音楽でもなんでもよいが、それを血肉にまでした人間――いや、しかし、やめておこう。あまりにも凡庸な問いだからな。わたしの正直な気持ちは、ただ、さみしいのである。ネットの普及が、濁流のように何かを押し流してしまうという、普遍的な傾向に拍車をかけ、深さをもった優れた表現者を土砂の下に押しつぶし、埋葬してしまう様子が(これは、ある意味ではひどく失礼なものいいだけれど)。もちろん、達観した達人は、そんなことは気にもせず、世はそういうものですよと軽快に歩み去っていくのでもあろうが。

わたしはさほど古いものを知っているともいえまい。その程度で、何がいえるか。さて、せっかくだからイタロ・カルヴィーノを何か読み返してみるか。ひさしぶりだな、カルヴィーノも。


現代日本における表現はある一定の深さに分厚い底があって、それより下に届いているものがほとんどない。何というか、その事実にむかつく(わたしの未熟である)と共に、じつに恐ろしい感じがする。

昼から(下の)甥っ子が名古屋からお勉強しにやってくる。まずは甥っ子が昼飯を食べていなかったので、「ひぐち」で食べさせる。その間に、進路のことやらよもやま話やら、いろいろと二人でしゃべる。
 お勉強は高校数学。三時間くらい、楽しそうにやってくれた。帰りはJR岐阜駅まで送っていく。
 甥っ子は秀才ってほどではないが、勉強ができないわけでもなく、ただ普段はそんなにやりたくないだけで、それだけなんだよね。上の甥っ子もそうだったが、素直に育っていて、教えていて気持ちがいい。こちらまで、わたしのかつての素直な性格に、一時的に戻る気がする。たぶん「一流の家庭教師」を付けて勉強だけさせればそこそこいい大学も行けると思うが、さて、そういうのはどうなんだろうなあ。わたしはこの歳まで生きてきて、17年間くらいかな、塾の先生もやって、人の幸せはほんとわからないと思う。「才能は金で買える」というのは事実で、かなり普遍性があるが(だから、「親ガチャ」てのはかなり事実だ)、人生は一度きりで、「あらゆる人生が金で買える」わけではない。って、何がいいたいか、わからないと思うけれど。

僕は、頭のいい人間はそれだけである程度「病気」だと思う。「病気」というのは、「イヤな人間」と思ってもらってもいい。で、わたしもそこそこ頭がいいので、始末に負えない。頭のいい人間は、自分が不幸にならなければ、他人を不幸にするような気がする。