こともなし

晴。いい天気。

大垣。
ミスタードーナツ大垣ショップ。チーズとチキンのトマト煮パイ+ブレンドコーヒー393円。僕よりも少し年下くらいのオバハンたちの女子会が朝からけたたましい。獰猛で笑える。隣の席は、オールドファッション(というドーナツです)とコーヒーのおじいさん。こういうのはいいね。向かいの30代くらいの男性は、PCを持ち込んで何か仕事中。リモートワークかな?
 『山田稔 自選集 I』を読み始める。この巻はわりと軽めの文章だが、じつに上手いもんだな。つい、文学は本当に滅びないのか、とか、どうでもいいことが頭に浮かんでくる。普段のわたしの中で既に文学は滅んでいるといってもいいのだが、山田さんのそれのような稀な散文芸術を目の当たりにすると、「文学だなあ」と思う。文学は決して自然なものではない、自然に見える文学ほど、究極の作り物なのだ。徹底的に技巧的にならないと、自然な散文は書けないのである、当たり前のことだが。そしてわたしは、その意味で「自然な散文」というのが必ずしも好きではないのだが、ここまでくるとさすがに見事、なんて陳腐な感想に至らざるを得ない。もっとも、はたして山田さんの散文は、「自然である」といっていいのか?という疑問も湧くが。
 若い頃わたしの世界を開いたのは小林秀雄であったが、小林秀雄はいまや基本的に滅んだといっていいだろう。いや、わたしの世代ですらもはや小林秀雄はほとんど意味がなかったのであり、わたしが小林に感受したのは、ただわたしが(幸いにも、といっておこう)素朴な田舎者であったからに過ぎない。さて、現在にあって世界を開いてくれるような存在が、どれほどいるのだろうか。ちょうど山田さんに「いや、天野さん、それはちがう、と私は言いたい。世の中には詩の、芸術のわかる人間とわからない人間の二種類しかいないのです」(p.58)とあるのを読んだわけだが、まさにそれである。ま、わたしは詩がわからないので、ちょっと具合が悪いのだが。いや、あるいは致命的かも知れない。

いまや、ゲーム、マンガ、アニメ、音楽、映画等等で、強烈な刺激によって快楽中枢、脳内麻薬を直接操作していくような時代であり、脳内に点在する感性の島宇宙を接続・統合していくのがひどくむずかしくなっている。芸術には意味がないし、思想はなくなり(代わりに「哲学」が栄えている)、人間性というものも大きく変わった。意味が脱落するほど記号が氾濫し、人生というものが素朴でなくなってしまったのであり、人工世界の中で「文学」*1がいったい何であろうかという気もするわけだが。
 素朴な人生は、無限というものに接していたのだが。自我という隙間ない記号の網に、リアルがブロックされている。

障子を二枚、障子紙を貼り替える。なかなかむずかしくて、あんまりうまくいかなかったが、まあいいかということに。

NML で音楽を聴く。■モーツァルト交響曲第三十八番 K.504 で、指揮はアンドルー・マンゼ、北ドイツ放送フィルハーモニー管弦楽団NML)。オーソドックスでよい。以前のここでもマンゼに好感をもっている。わたしの好きなタイプの指揮者なのだな。

■バッハのトッカータとフーガ ヘ長調 BWV540 で、オルガンはエレーナ・プリヴァローヴァ(NML)。シューマン交響曲第三番 op.97 で、指揮はジョン・エリオット・ガーディナー、オルケストル・レヴォリュショネル・エ・ロマンティク(NMLCD)。全体的にすばらしい演奏で、生命力に満ち溢れた第一楽章が特によかった。それにしても、曖昧模糊としたシューマンオーケストレーションとよく云われるが、オリジナル楽器によるこれを聴くと、全然そんなことがない。

夜。
大谷翔平関連動画をいろいろ見る。大谷がいかにMLBの一流選手たちに驚かれ、リスペクトされているか知った。「生涯 lifetime で一人出てくるかどうかという選手」という評価をたくさん聞いた。「二刀流」は本当に疲れる、それをMLBのレヴェルでやっているのは人間ではない。そして、投げるのも打つのも走るのも、超一流だ。態度もすばらしい、と。

*1:人工世界の中での「文学」の例として、村上春樹の小説を考えてもよいかも知れない。