こともなし

曇。

スーパー。

昨日シェイクスピアの『コリオレイナス』を読んだので、その元ネタとなっているプルタルコス「英雄伝」の、コリオラーヌスの部分を読んでみた。「英雄伝」は周知のごとくギリシャとローマの英雄を対にして「対比列伝」とも呼ばれるが、ここでギリシャ側で対比させられているのはアルキビアデスである。なるほど、敵に投じて戦った英雄、ということで比べられているわけか。
 シェイクスピア劇の方はもちろん「英雄伝」そのままではなく、特に民衆を煽動するシシニアスやブルータス(じつに嫌なやつらに描かれている)、またコリオレイナスの父代わりになっている重要なメニーニアスが「英雄伝」ではキャラクター化されていないが、全体の筋としては凡そそのままだ。「英雄伝」の方でも、きれいに悲劇になっている。シェイクスピア劇の方では、コリオレイナスの高貴にして融通の利かないところが、さらに強調されているといえるだろう。
 「英雄伝」は、岩波文庫の河野与一訳をもっているので、それで読んだ。30年くらい前に読んだだけなので、中身は何も覚えていなかった。河野訳は谷沢永一氏がほとんど罵倒に近い評価をしていて、コンピュータのように無味乾燥な文体と非難していたのを覚えているが、いま読んでみると確かに読みやすい文章ではないけれど、谷沢氏が河野与一の文章を読めていなかったことがよくわかる。まあ、それはどうでもよいので、そういえば、小林秀雄のエッセイにも、河野訳「英雄伝」に関するものがあったな。今度はそれでも読み返してみるか。

なお、河野与一訳がきらいな人は、京都大学学術出版会の西洋古典叢書にも「英雄伝」が入っているので(全体が完結しているかは知らない)、そちらを読めばよいだろう。翻訳の精度も上がっていることが期待されるので。
 そうそう、「英雄伝」を読んで、ちょっとオヤと思ったところがあるので、引用しておく。

(前略)(コリオラーヌスは)政治家の徳性に最も適っている重々しさと温和さを理性と教養によって調合しておくことをせず、国家の政務に与るものは、プラトーンが『孤独の伴侶』と呼んだ我儘をできるだけ避けて人々と交わり、或る人々が手ひどく嘲笑している不正に対する甘受を好むようにならなければならないということを知らなかった。(三巻 p.160)

プルタルコスは理性と教養を重視しながら、不正を甘受せよ、それを好むことが政治家には必須だというのであるが、ここのところはもう少し説明してもらいたいものである、現代人には。まあ、何となくわかる気もするし、現代でも実際のところはそうなのかもな、と思わないでもないが。

昼から、ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。フレンチクルーラーブレンドコーヒー396円。小沼純一武満徹逍遥』を読み始める。いまひとつピンとこないな。

夜。
You Tube にアップされている「刃牙」動画を見ていた。