「制度設計」の時代

晴。

夕方まで、一日中ごろごろだらだら。

昨日のターナーの本ではないが、レヴィ=ストロースのいうところの社会は「冷たい」「静的な」もので悪であり、現代社会は「熱い」「動的な」もので善である、ということにどうしてもなっちゃうのだよなあ。ピエール・クラストルのいうところの「国家に抗する社会」も、たぶん前者で悪ということになろう。でもわたしは、ほんとにそんなものなのかねって思う。現在の社会を動的なものにしているいちばんの要因は(マルクスの分析したとおり)「差異による利潤の獲得」と等価交換を原則とする(高度)資本主義であるが、それゆえにこそ我々は経済成長と「永遠の進歩」の中に居るのと引き換えに、永遠に馬車馬のように、新しい差異を求めて走り続けねばならないのだ。我々はいいかげん、そんなものにうんざりしてもいいのではないかとも、わたしは思ってしまうところがある。つって、資本主義のオルタナティブを求めることもまた、ほとんど不可能なことであると歴史が示してきたわけで、我々の絶望もまたそこにあるというわけだ。

とかむずかしいことを考えてもどうしようもないので、ツンデレアニメの動画でも見て2828していよう、わたしは…。
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「よくもこの私を心配させたわね、バカあ」(←お前が悪い笑)
TSUTAYAへ行ってくる。会員証有効期限の延長手続きとか。

夕食、日にちの経った肉で炒めものをしたら、肉が悪くなってた…。最近暑いからな。


極めて雑駁な放言。
いまの社会学を見ていると、議論が事実上の「制度設計」の方向へ進んでいるように見える。それは経済学からの影響もあるのだろう。つまり、社会学と経済学の一体化。
制度設計で思い出すのはもちろん社会主義共産主義である。しかし、理念先行の社会制度は、フランス革命からしてずっと膨大な犠牲を払ってきた。ロシア革命はいうまでもない。社会学や経済学は、もともとは「ミネルヴァの梟は夕暮れに飛ぶ」の体で、現実に自生してきた諸制度の後追い的分析の学だった筈である。そこから、「制度設計」への移行。それはいまや正直言ってわたし程度の粗雑な頭では、もはや理解できないレヴェルまで複雑化しているように見える。さて、学者たちによってこのように設計された諸制度は、素朴な問いであるが、果たしてこの複雑きわまりない世界をうまく廻していけるのだろうか。例えば現在の経済学は貨幣の市場流通量の繊細なコントロールによって、景気の循環をある程度うまく誘導していけるように進歩してきたかのごとく見える。では、発展中の社会学=経済学もまた、成功できるのか。そのあたりのことは、もちろんわたしなどにはなあーんにもわからない。やってはみたけれど、また膨大な犠牲を払いました、とかは…。

夜。
とらドラ!』第10話まで見る。