こともなし

晴。

NML で音楽を聴く。■バッハのパルティータ第五番 BWV829 で、チェンバロスコット・ロスNMLCD)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十四番 K.449 で、ピアノと指揮はダニエル・バレンボイムNML)。若い頃のバレンボイムは本当にすばらしいな。いまの感覚でいえば、ここには「効果」というものが欠如しているということになろう。その代わりといっては何だが、生命力と深さがある。というか、これを聴いていると生命力とは深さなのだということがわかる。また、現代におけるモーツァルト演奏の問題点も、はっきりしてくるのだ。

ヒンデミットの「ウェーバーの主題による交響的変容」で、指揮はラファエル・クーベリックシカゴ交響楽団NML)。

ウェーバーの主題による交響的変容

ウェーバーの主題による交響的変容

  • アーティスト:シカゴ交響楽団
  • マーキュリー・ミュージックエンタテインメント
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スーパー。

曇。図書館。何も借りず。


ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。エンゼルクリーム+ブレンドコーヒー418円。『武満徹著作集』第二巻の続き。わたしのような歴史に浮かぶ泡沫(うたかた)にとってすら、武満さんがひどくおもしろいというのは、不思議な感じがする。わたしは音楽家ではないし、何者ですらないのに。それだけ、武満徹という存在に普遍性があるということだろう。真に自分というものがある武満さんの思考は総体性・全体性をもっていて、一部を切り離して考えることは無理であり、まちがってもいるが、例えば本書の、世界は何かひとつのものに収斂していく、そのとき創造が生まれるだろうという考えはどうだろう。字義的には、わたしはこのような考え方には不賛成であるが、武満さんがこう考えるのはわかる気がする。その音楽を思い起こせばよい。武満さんの音楽は西洋音楽に属するが、そこに日本あるいは東洋でしかあり得ない音楽を作り出した。その意味で、武満さんの音楽は東洋と西洋の架け橋になったと、いうこともできるだろう。そういった「収斂」。武満さんの時代には、その試みは孤独なものでなかった。
 果たして武満さんがそののち気づいていったのかわからないが、いまの日本は東洋をどんどん失っている。世界的な「収斂」というよりか、西洋発のロジカルな思考法が、世界を覆い、その意味で(すごい勢いで)世界が単一化しつつある。単一的西洋化。それ以外の消去。このようなことは過去にもわたしはたくさん書きつけてきたが、同じことを繰り返す他ない。そういった中で武満さんを聴くと、それは「収斂」などという語句で表せない音楽であることを強く感じる。このような飛び抜けた「個性」が、不思議なことに音楽界に屹立していることは明らかだろう。武満さんは、アノニマスという方向にひどく惹かれていった、にもかかわらず。
 付記しておけば、武満さんの飛び抜けた「個性」は、「才能」によって記号をひねくり廻したような脆弱なものではない。武満さんの全存在自体がおのずと鳴り響いているような文章であり、音楽なのだ。ひとつの固有振動であるとでもいうべき。それが「個性」だというのなら、わたしもこの語を肯定しよう。

 
扶桑から帰ってくるとき、たまたま見た会社の看板に、何故か space locomotive という語句を連想した。でも、これはへんだなと思っていて、ああそうだ、steam locomotive だったなと気づいた。しかし、locomotive とは何か喚起力のある語だな、対応する日本語の「機関車」という語も、何かおもしろい、とか思った。特に意味ないですが。


早寝。