こともなし

曇。

ギボンを読む。

スーパー。

ここしばらく心の空疎に苦しんだ。なかなかうまくいかないものですなあ。未熟なり。
こういうときはこうしたらラクになるというのがいつもうまくわかればよいのだけれど。突破口は必ずどこかにある筈。


昼から運転免許証の更新。以前作っておいた年寄り向けのメガネを架けて手続きする。次の五年間のうちにおじいさんに近い年齢になってくるしな。出来てきた免許証の顔写真がぼーっと茫漠とした表情になっているので、我ながら笑った。この五年間で顔が変わったな。ましかし、毎日顔がちがう感じがするのだけれど。
パラパラと雨。

第2回 罠の外を知っているか?――『呪術廻戦』論(3)|くたばれ、本能。ようこそ、連帯。|高島 鈴|webちくま(1/3)
わたしは少し前から webちくまに連載されている、この(アナキストにして)フェミニストという高島鈴という人の論考が過激でおもしろいと思っていた。わたしは『BEASTARS』も『呪術廻戦』も知らないけれど。この人は「社会正義」を唱えるがゆえにわたしの「敵」であるともいえるが、若い人はこれくらいとんがっていないといけないのだろう。わたしは若い時、もっと微温的だったかも知れない。この人もまた、現在における「日本人の徹底した西洋化」のサンプルのひとりであると思われる。

筆者の想定する社会正義とは、単一の「正しさ」というより、このような集団形成において生じる「間違い」に抵抗するための手段なのだ。ゆえに「正しい」「間違っている」が同義とされる社会は危ういのである。

http://www.webchikuma.jp/articles/-/2421?page=2

これはおそらく、彼女のフェミニズムが「正しさ」を主張するよりは、むしろ「間違い」に対する武器であることを暗に指しているのだろう。では、「正しさ」は主張しないのか? もちろん、そんなことはあるまい。「正しさ」を主張しないというなら、論理的にそれは欺瞞あるいは逃げということになるかも知れない。いずれにせよ、正しさ≠間違いへの抵抗という発想は、感覚的にはよくわかる。著者はこれを、論理的にどこかで詰めているのだろうか。もしかしたら webちくまでの連載のどこかにあったのかも知れないが、わたしの脳みそは腐っているのでわたしには茫漠としている。
 間違いへの抵抗というのはすべからく事後的なものだ。間違いは既に起きてしまっている。これが「正しさ」とちがうというのは、わたしには魅力的に思える。わたしが受け身的な人間だからだ。しかし、著者のような若い人が、そんなことでいいものだろうか?

ギボンを読む。