自分を否定することを肯定して生きる

曇。

「人殺しの顔をしていない、人殺し」が、怖くてならない。 | Books&Apps
だから、もっと人殺しの顔をしろ - 関内関外日記
やっぱり、もっと人殺しの顔をしろ2021 - 関内関外日記
ここでは様々なレヴェルの議論がごっちゃになって論じられている。「負け組」の悲哀。いったん「負け組」になったら、這い上がることはできない。「勝ち組」には「負け組」への想像力がない。生きることは他人を蹴落とすことである。人は他人に迷惑を、害を及ぼさずに生きることはできない。人は、知らぬ間に他人を害して生きている。人間が生きること自体が悪である。(その他、まだあるかも知れない。)ゆえに、人は「人殺しの顔をしろ」と。文章には力がある。説得力は強い。我々を考えさせるところがある。
 このような力強い文章をこんな風に扱うことはよくないようにも思われるが、ここで論じられていることは哲学的には(あくまで、哲学的にだが)既に解決(?)されている。それは、カントの『実践理性批判』における定言命法である。ネットだから、Wikipedia から引用しよう。「あなたの意志の格律が常に同時に普遍的な立法の原理として妥当しうるように行為せよ」これである。上の文章で述べられている前提は、往々にして正しい観察だといえるだろう。しかしそこから出てくる「意志の格律」において、「人殺しの顔をしろ」とは「普遍的な立法の原理」とならない。
 結局、自分を否定することを肯定して、それを土台にして生きていくことはできない。それでは、生きようとした瞬間にみずからを裏切ることになる。むずかしい問題である。

母診察。

ごろごろぷー。