平野啓一郎『マチネの終わりに』 / 『ドゥイノの悲歌』

晴。

昼から部屋掃除。


平野啓一郎『マチネの終わりに』読了。すばらしい恋愛小説だった。わたしは残念ながら、こんな大人っぽい恋愛はしたことがないし、精々アニメのラブコメがふさわしい程度のおっさんであるが。天才クラシック・ギタリストと、父親が世界的な映画監督で優れた国際ジャーナリストである女性の恋愛という、下手をしたら鼻持ちならないイヤミなそれになりそうなのを、著者は見事に造形してみせた。特に前半のクライマックスに「ドゥイノの悲歌」を小道具に使うという冒険には、驚かされたが、成功しているように思う(もっとも、わたしにリルケがわかると思わないで下さい)。しかし、悲恋ですねえ。第六章は痛ましすぎて、斜め読みせざるを得なかった。ラストも感動的だが、この後どうなっちゃうんだろうという危惧はわたしだけではあるまい。というか、ここからもっとひどい悲劇にしかならないような気がする。

マチネの終わりに (文春文庫)

マチネの終わりに (文春文庫)

しかし、著者は世界を股にかけた、これほど緻密でハイブラウな小説が書けるのに(イラク戦争金融工学!)、ツイッターなどでのかなり単純な政治的意見とかは何なのという感じ。小説内とリアルでは、優れた小説家でも同じではないということか。平野啓一郎さんというと、大学生のときに書いたデビュー小説がひどく話題になったことをわたしは覚えていて、それらの作品もかつて読んだのだったが、年月が経って力をつけたなあと祝福したい気持ちです。

アマゾンのレビューを見てみたら、予想どおり酷評の嵐(笑)。皆んなハイブラウが嫌いなのだなあ。ま、わたしが子供っぽいのかも知れない。
しかし、アマゾンのレビューってどうして酷評が上に来るようになっているのだろう?


手塚富雄訳の『ドゥイノの悲歌』を、ひさしぶりに読み返す。翻訳で詩を読むというのは、どこまで意味があることなのだろう。上の小説で引用されているのは第五歌の最終部分であるが、手塚富雄訳と平野氏が独自に訳したものとでは、受ける印象がかなりちがう。平野訳の方が、遥かにわかりやすい訳文になっているのは確かだ。
 それはともかく、『ドゥイノの悲歌』はこんなに「クラい」詩だったのだな。幼稚な感想ですみません。一応最後の第十歌のラストは、希望が見えるような終わりになっているのかも知れないが、最初に書かれた冒頭部の高揚は、詩が進むにつれて暗鬱になっていく。やはり、ロマン派の「天才崇拝」的な酔いが背後にあって、そこからみずからを見た苦悩というものを感じずにはいられない。彼のいう「天使」は、歴史に名を残したきらめく「天才」たちを暗に指しているようにも、わたしには読めて仕方がないのだが。しかし、時代は凡庸なものになり、天才は滅びる。そして愛。みたいな。偉大な詩ではあるが、わたしにはちょっとつきあいかねるような感じもする。
 いや、凡人のまったくの誤読ですかね笑。

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

ドゥイノの悲歌 (岩波文庫)

  • 作者:リルケ
  • 発売日: 2010/01/16
  • メディア: 文庫
 
手塚富雄先生の「正解」を参考にしながら『ドゥイノの悲歌』をあちらこちらひっくり返していたのだが、あまりにも高尚すぎてイヤになってきた。全世界の愛と苦悩を一手に引き受けているようなリルケであるが、わたしのような凡人からするとちょっと病的なような感じがする。さても、我々のごときニセモノであるしかない人間は、許し難く、度し難い。