愛知県美術館で横尾忠則展

昧爽起床。
どうでもいいことをやってる(笑)、もっとマジメに勉強なさいというような夢を何度も見る笑。まったく、うるさい家庭教師みたいな無意識だな。こっちも考えがあってやっているんだから、いいんだよ笑。

今日は午前中に家を出て、愛知県美術館まで「横尾忠則展」を見に行ってきて、いろいろ書こうかと思っていたのだが、帰ってきたら老母が高熱で寝込んでいて、いま洗濯の残りをやったりしていたら 14:43 である。かかりつけ医のところへは老父が既に連れていっていて、コロナではなさそうではあるが、でもわからない。インフルエンザかも知れないし、風邪か、それとも昨日の外出の疲れかも知れない。熱はまだ引いていない。横尾忠則は(半ば予想していたとおり)非常にインパクトがあって、これまで見た展覧会という展覧会でもっとも印象的であり、ひさしぶりに図録まで買ってきたのであるが、それについてはまたあとで書こう。ドロドロとしたインパクトがありすぎて、さすがにわたしも疲れた。少し休んでからにする。なお、今日はいい天気で、暑い。

夕食はテキトーに作って老父と食う。老母の熱は下がらず。

早寝。

(翌日深夜起床後に記す。)

展覧会「GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?」を見てきた。すごいインパクトで、頭が混沌としている。横尾忠則ははたして芸術家であろうか? というようなことを書くのは、芸術にしては、あまりにもナマナマしいからだ。芸術というとふつう(?)なら、もっと抽象化、概念化がなされているものだろうが、横尾の作品は物自体のようにナマナマしく、原初的な衝動そのもののように見える。「生」と「死」、そしてその間を繋ぐ「性」が、太い軸を作ってまっすぐに貫いている感じだ。それはあまりにも彼方まで続いて、わたしの意識の限界を超えている。横尾はわたしの精神に何を注入したのだろう。
 この展覧会で展示されていた作品は、横尾が高校生の頃のデザイン作品からして既に非凡であり、レヴェルの低いものは皆無であったが、その中でも1966年の「ピンクガールズ 無作法な娘たち」の一連の作品には強い感銘を受けた。いや、そんな陳腐な言葉で語ってしまってよいものか、とにかく最大級の衝撃であった。横尾も快心の(?)連作であったのだろう、のちの作品にも多数自己引用されている。デザイン的、ポップのようにも見えるが、じつにいやらしく、ほとんどおぞましいばかりに「無作法な」娘たちだった。わたしは、こんなに猥雑で暴力的な「絵画」は見たことがない。これもまた女だというのだろうか。展覧会カタログには二点しか収録されていないのが本当に残念である。
 個々の作品にはまだ他に感銘を受けたものが多い、というかそのようなものばかりだが、やはり「Y字路」のシリーズは期待どおりすばらしい、いや、むしろ不気味だった。このタナトス的な絵画の不気味さはなんだろう。このY字路は、どちらを選択して進んでも碌なことにはなりそうもない感じがする。人生とはそんなものだとでもいうのであろうか。
 もうこれ以上は語らないでおこう。ナマナマしさ、侵犯、そんな文字を繰り返しておこう。
 展覧会はこれほどのものなのに、コロナ禍のせいか来ている人は少なく、広い会場を自由に回遊して堪能できた。平日の午前中のせいか、若い女性の姿が目立ち(来客の7割くらいが女性だった)、彼女らがこんなものを見ていいのかしらとちょっと思ってしまったことを告白しておく。実際、女性がこのあまりにも男性的視線において猥雑な横尾を見るというのは、どういうことなのか、何を見ているのか、古くさくも幼稚なわたしの想像を超えている感じがする。女性差別的な発言であろうか。

付記しておくと、横尾の作品には年齢によるテンションの低下というものは見られない。近年の連作である「謎の女」のシリーズも、充分に衝撃力があり猥雑である。横尾の精神の根が原初的な生死の領域に下りている証拠であろう。