こともなし

雨。

午前中、ごろごろ。何もしない。

昼寝。
午後もごろごろ。息をしているだけ。
夕方、晴れる。

ジョージ・オーウェルカタロニア讃歌』を読み始める。

夜。
「青ブタ」や「ゼロの使い魔」のMADを You Tube で見て萌えていたところ、さて寝ようかと黄金頭さんのブログをちょっと覗いたら、なかなかインパクトのある増田(はてな匿名ダイアリー)のエントリーが幾つかリンクしてあった。
LGBTを嫌う自由はあるのか
増田は2つの「嫌う自由」を混同してるぞ
ご丁寧にありがとうございます。 わたしが嫌いとする根拠が差別的であった..
なんかブクマ集めてるけど、納得できないわ。 だって現実では、かわいそう..
じつは黄金頭さんのブログエントリーを読む前に、次のリンク先の文章も読んでいた。
今アンジェラ・デイヴィスを知るべき理由――訳者まえがき|Web河出
また、先程このブログエントリーも読んだ。
「LGBTを嫌う自由」自体はあるけれども - 紙屋研究所
悪趣味的に茶化させてもらいますが、皆さんよく口が回りますな。いちばん上位にマウントしているのが紙屋研究所で、これはわたしにはどうでもいい。やはり、わたしの共感するのは、独特のロジックだが、黄金頭さんのブログエントリーであるな。射程はこれがいちばん遠くまで届いていて、さすがだと思う。そして、自分自身の全存在がちゃんとかかっているところが、ロジックに血を通わせている。
 しかし、差別という狭い問題意識で拘ると、どういうことになるか。アイデンティティ・ポリティクスの問題に還元されてしまう。わたしはこのところこの問題については少しづつブログにメモしてきたが、じつに面倒なものだ。絶対的に正しい「反差別」という正義の暴力については、言うことがむずかしい。そういうわたしだって、「反差別」という正義を受け入れざるを得ないからだ、なぜなら、それは絶対の正義だから。正直言って、自分はその矛盾を解消する論理をもっていないのである。
obelisk2.hatenablog.com
obelisk2.hatenablog.com結局、こういうことかな。正義が貫徹されるごとに世界は進歩し、確実によくなっていく。しかし、この息苦しさは何か、と。黄金頭さんはそれに対し人間の根源的な自由をぶつけた。わたしはこういうことに対し、あんまりまじめになりたくない。もっとテキトーにやっていきたいのだ。さてそこで、はっきりと差別に対して戦わない人間は、差別主義者だという論理がある。テキトーは敵だというものだ。困った困った、こういうのにはどう対応すればいいんだろう。もちろん、論理的にまちがっているのはわたしなわけだが。

こういうことだ。わたしだって差別はいけないものだとわかっている。しかし、LGBTもBLMも、正直言ってそれほどの興味があるわけではない。そういうわたしは、差別に加担していることに他ならないと。わたしは世界のどこのものでも、あらゆる差別・不正に対して全力でコミットしなければいけないといわれる。はたして、そんなことが可能だとでもいうのか?

わたしも、自分の息子(わたしには実際は妻も子供もいないが)がゲイだったら、わたしの妻が黒人だったら、またその視線はまったくちがうものになるだろう。そういうのこそ、真のコミットなのではないだろうか?

例えば、わたしは女性差別に関してはいま深く考えようとしている。これはわたしの問題でもあるからだ。わたしは古い人間ゆえ、はっきりとセクシャル・ハラスメント的な傾向がある。また、男らしさという発想は骨絡みだ。それらが糾弾されるいま、それを解体したらどうなるか、人ごとではない。