記憶は「表象の記憶」たること

曇。

午前中、甥っ子の勉強を見る。
昼食は「ひぐち」にて。ちょうど日が照って暖かかった。
午後もお勉強。このところ某予備校の物理の問題集を解いているのだが、なかなかよい問題集。もし完璧にやれば、東大京大レヴェルでもいけるな。ので、甥っ子にはむずかしいところもあってしまうなあ。僕も随分ポンコツになって、これだけ長時間集中していると疲れる。

我々は世界を表象と取りちがえてしまいがちである。しかし世界=わたしであり、世界は表象ではない。誤った「哲学」は世界を表象と取りちがえた上で構成される。例えば「過去の自分を記憶で追体験する」といわれるような事象が起きるとして、その記憶は世界=わたしを追体験するのではない。わたしの「表象」を追体験するのである。世界そのものを思い出すことはなく、世界=わたしは現在にしか存在しない。つまり、記憶は「世界そのものの記憶」(そんなものはない*1)ではなく、表象の記憶なのである。表象を世界と混同することで、世界は存在しなくなる。ゆえに、その人もその意味で存在しなくなる。

我々は「死」を知っているように思っている。例えば、死んでしまえばそれ切り、認識も何もなくなるのだから一切の無、それで終わり、死後の世界(笑)なども当然ない、とか、子供でも言うことができる。そういうことの内容があるいはまちがっているかどうかは別にして、そこで我々が知っている「死」とは言葉にすぎない。それをあたかも死を知っているかのように思い込んでいるだけで、実際は死を知らない。そこで、我々はじつはある観点からの生をも知っていないことがわかる。

(追記。表象という概念自体が既に問題含みであるように思われる。もっと正確な概念を使わなくてはならない。例えば世界の亀裂はリアルであるが、それはたんに表象とはいえない。)

*1:たとえ一神教徒が「神」と完全に「合一」したところで、その記憶は表象化される他あるまい。でなければ、その体験を思い出しただけで「神との完全な合一」が体験されることになってしまうから。