論理の解体と文明

晴。
昨晩は鈴木大拙を読んで寝た。

午前中は甥っ子の勉強を見る。
昼食は「ひぐち」にて。甥っ子はいろいろ社会的な話もできるようになってきて、大人びてきたな。名鉄岐阜駅まで送る。

そういや、甥っ子がフィルム・カメラを知らなくて驚いた。「昔はのう、フィルムというのがあったんじゃ…」とかしゃべっていると(笑)、ほんと古老になった気分。だから、「現像」というのも知らなかったね。

どうでもいいけれど、「昔はのう、アナーキズムというのがあったんじゃ…」ってのも既に現実化していますね。国家による人間の家畜化はどこまで進むのだろうな。もちろん、わたしも家畜の一としてその恩恵を被っているわけだが。牧畜的管理社会とでも呼ぶか。


獲得した論理というものはいったん解体されないと我々の自由を奪う。という面倒なものなのに、我々がたくさん論理を得なければ生きてはいけないようになっているのはどうしてか。それが「文明化」ということなのかな。疲れる話である。

文明の維持のために必須な「汚れ仕事」が、多く低賃金なことについて。しかし、これはいつまでも続かないかも知れない。か。うーん、わからない。


ごろごろ。

夕飯はカレー鍋。鍋の季節です。