保守の「保守主義」化

曇。

アメリカ大統領選であらわになった「分断」について日本でも云々されるようになったが、日本にあってもまったく同じことが起きていることがあまり指摘されていないのは片手落ちである。アメリカではどんな人間にもわかるようにはっきりと可視化されたというだけで、この「分断」を指摘する言説は前からたくさんあった。これは世界的現象であり、アメリカに特別な話ではない。日本でも、例えばツイッターなどを見ている人にはおなじみのことである。「分断」の対立軸は、例えば「ヘイト」と「サヨ」という感じであらわれる。

「左翼」とは何であるか。それは言葉であると中沢さんはいったが、まさにそれである。したがって、左翼ゆえのイデオロギー的硬直・偽善が起き、インテリの大衆からの遊離ということもあるわけだ。その「左翼」と対立するものとして、仮に「右翼」よりは「保守」という言葉を選ぶとして、さて近年、保守の「保守主義」化というものが広く観察されるようになったとわたしは見ている。保守というものは元来イデオロギーではなく、むしろ生きる態度、一種の「知恵」のようなものであった筈だ。それゆえに、保守は柔軟であり、また一方でははっきりとせず、曖昧でもあった。それが身上だったのである。保守の保守主義化は、保守の一種の自殺であるとも考えられる。保守もまた言葉になり、硬直化した。サヨのわたしには、ヘイトやネトウヨというのは、そんな風に見える。

NML で音楽を聴く。■シューマンの「ダヴィッド同盟舞曲集」 op.6 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NML)。この曲は「交響的練習曲」と並んで、シューマンのピアノ独奏曲の中でわたしのもっとも好きな曲のひとつであるが、これほどの演奏は滅多に聴けるものではない。シュ・シャオメイのこの曲の演奏を聴いたあるピアニストが、こんな演奏ができるなら10年間の(文化大革命の)再教育収容所も厭わないと云ったそうであるが、わからなくもないくらいである。バッハ弾きのシュ・シャオメイと、まったく連続しているところがおもしろいし、シューマンが一筋縄ではいかないことを教えてもくれるだろう。なおこの曲名の表記であるが、NML の「ダヴィット」と濁らないほうが正しいとわたしにも思えるけれど、慣例の「ダヴィッド」で一応表記しておく。日本語版の Wikipedia でも濁っている。些細なことだが。

Schumann: Davidsbündlertänze & Kinderszenen

Schumann: Davidsbündlertänze & Kinderszenen

  • 発売日: 2012/01/10
  • メディア: MP3 ダウンロード
 
晴。
昼から県営プール。スーパー。

だらだらとどうでもいいことをする。

早寝。