こともなし

晴。
しんどいフェイズに入ったな。新規蒔き直しというところか。
中沢さんがいま取り組んでおられるように論理の力を使って論理というものを完全に解体してしまうことが必須であることを痛感するが(しかし、中沢さんの能力をもってしてもまだ成功していない)、わたしの力では何の役にも立てない。ほんと、ものごとをあまりよくわかっていない(超)秀才がいろいろ出てきて、つまらん啓蒙にかかってきて、砂で作っているお城は波にさらわれて壊れていくばかり。ま、わたしが未熟で能力がないだけなんだが。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトの幻想曲 ハ短調 K.396、アダージョ ロ短調 K.540、デュポールのメヌエットによる九つの変奏曲 K.573 で、ピアノはシュ・シャオメイ(NMLCD)。K.396 は知らない曲だな。もともとはヴァイオリン・ソナタのためのピアノ・パートで、妻のコンスタンツェのためのものらしいが、未完である。それを、モーツァルトの死後、シュタートラーが補筆して出版したということらしい(参照)。■ベートーヴェンのヴァイオリン・ソナタ第二番 op.12-2 で、ヴァイオリンはクリスチャン・フェラス、ピアノはピエール・バルビゼ(NMLMP3 DL)。


あまり見ない鳥がたくさん来た。でも、わたしのしょぼいコンデジでは、ピントが枝に合ってどうしようもない。
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スズメより小さい鳥。いろいろ調べてみると、どうやらヒガラらしい。鳴き声がたぶんそうだ。でも、コガラかも知れない。
いちばんきれいに撮れたのは、明らかにシジュウカラ。ヒガラなどと混在することがあるらしい。
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老母によると、「小鳥来る」という秋の季語があるという。小鳥なんていつでも居ると思ってはいけませんよ。昔の人の観察眼は繊細だったな。


概念と論理によるこの荒涼とした世界。「しかし長く歩んできた道もいつか細りはじめ、気が付いてみると朧で荒涼とした景色を前にして、立ち往生するような歳になってしまった。」(参照猪木武徳先生によるこの「敗北宣言」(こんなことをいうのはじつにわたしの失礼であるが)は、わたしにはわかるように思える。あれ、前にもこんなこと書いたな。いずれにせよ、若い人たちの世界は徹底して合理化されようとしている。それにあらがうことはむつかしいし、そのような態度が是とされることもまずはあり得ない。もちろん、論理がいけないとか、それはない。それは愚かで却ってものごとを知らないというべきであろう。わたしは、記号だけの閉じた有限世界に亀裂を入れることを云っているのだ。

昼から県営プール。ゴーグルに曇り止めを塗るのを忘れていましたな。
スーパー。

珈琲工房ひぐち北一色店。新訳のオーウェル評論集の続き。また深い感銘。「スペイン内戦回顧」などは、わたしのバカみたいにナイーブなところだが、誇張でなく涙を抑えるのに苦労した。しかし、どれを読んでも至るところで心にぐさぐさ刺さってくるというのは、どういうものなのだろうか。わたしはかつては文字は読めていたが、オーウェルの行間が読めていなかったのだ。開高健オーウェルの「正直」をいったことを覚えているが(たぶんそれはわたしが覚えているだけで、実際には開高はもっと複雑なことを書いていたにちがいない)、これはたんに「正直」で片付けられるようなものではない。オーウェルには意外と断定的に語るところがあるが、それは自分を徹底的に相対化した上でのことで、それにゆずれない経験を咀嚼する確かさ(多くの人にとって、経験とは曖昧なものだ)と考えの深さがベースになっている。オーウェルはインテリであったが、インテリたることを徹底して相対化できるところがあった。無名のまま、歴史に何の痕跡も残すことなく消えていく人たちへの視線があった。というか、インテリのまま、彼らとほとんど同じ位置に想像力で立つことができるひとだった。まさに、偉大な想像力であったという他ない。それが、わたしを感動させる一因なのだろうかと思う。

オーウェルの政治への視線は、義勇兵として参加して戦った、そこで瀕死の重傷を負ったスペイン内戦の経験が元になっているのは確かだろう。それに関してきわめて「正直」であったのはまちがいない。以下、うろ覚えで書くけれども、開高も書いていたが、味方の兵たちが次々と撃たれてパタパタと倒れていく光景を高所から見ていたのに、どこか「楽しい」ところがあったということを、書くことができる人はほとんどいない。また、ファシスト兵がずり落ちそうなズボンを抑えてぶざまに逃げていくのをオーウェルは撃つことができなかった、ズボンを抑えて必死に逃げる兵は既に「ファシスト」でなく、ただの人間だったから。わたしたちは、かかる話から何を汲み取ることができるだろう。もしかしたら、こういうオーウェルを不愉快に思う人もいるのかも知れない。

ちなみに、オーウェルの文章がわたしに刺さってくるのは、いまわたしが生きる現代に照らしてのことである。古くさい話としてではない。為念。

柴崎友香を読み始める。


ネットで読んだある文章に、「『エンタメ』『純文学』といった伝統的なジャンル分けはとっくに有効性を失っている」という文句があって、少し立ち止まってしまった。このような主張自体は特にめずらしいものでも何でもなく、事実問題としてもたぶん正しいのであろう。むしろ、このようなジャンル分けをするような人間など、頭が古いとされるべきというのが進歩的であるという風潮である気がする。まあ、そんなことはどうでもいいので、わたしにとって問題なのは、さても古くさい人間であるわたしの頭の中で、この「ジャンル分け」がいまだに生きているという謎(笑)である。しかし、わたしはいまその「ジャンル分け」を自分の言葉で定義してみようとして、どうしてもうまくいかなかった。というか、それがうまくいかないくらいなのに、それはわたしの中に存在するのである。何なのだろうな。無意識の領分ということなのではあろう。

ある作家が、自分はもともと「純文学」系の小説を書いていたが、そういうものの注文が減り、意図的に「エンタメ」系の作風に移行したと最近発言していたのを読んで、それで何が言いたいのかわたしはよくわかった気がした。そのあたり。