こともなし

晴。

起きてぼーっとしていた。

バッハの BWV788 で、ピアノはグレン・グールド

 
NML で音楽を聴く。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十一番 op.53 で、ピアノはマルクス・シルマー(NMLCD)。■モーツァルトのピアノ協奏曲第十三番 K.415 で、ピアノはマルクス・シルマー、ア・ファー・クライ(NML)。いまモーツァルトを演奏することはきわめてむずかしいのだが、これはひとつの試みだろう。シルマーというのは凡庸なピアニストにも聴こえるが、なかなかおもしろいところがあるそれじゃないかとも思う。

モーツァルト・セッションズ

モーツァルト・セッションズ

  • アーティスト:UNKNOWN
  • 発売日: 2013/01/23
  • メディア: CD
プロコフィエフのピアノ・ソナタ第七番 op.83 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニNMLCD)。1958年10月のライブ録音で、ポリーニは弱冠16歳だが、唖然・呆然の演奏。いまこんな演奏ができるピアニストはひとりもいない。過去にもリヒテルくらい?

好天。
ミスタードーナツ イオンモール扶桑ショップ。ポン・デ・リングブレンドコーヒー396円。『永遠のピアノ』の続きを読む。文化大革命のときの一般人の洗脳と矛盾がすさまじく、少女シャオメイも洗脳されて機械のような単純さに陥るのだが、家族への気持ちや音楽の力のせいで割り切れないのである。それでも毛沢東への内面化された、いわば暴力的な心酔を止めることができない。精神の単純化というのは恐ろしいものだなと感じる。
 しかし、読書していて震撼する一方で、外へ出ると日本の完璧な秋の美しい世界なのだから、何なのだろうと思わざるを得なかった。こういうのは、どういうものなのだろうか。

帰りに江南緑地公園(草井)に寄って少し歩く。









河は木曽川。対岸は各務原市

保険屋の外回りのねーちゃんが来て、何やらしろというのだが、手続きがうまくタブレット端末でできなくて、いろいろと電話などしたあげく、すみませんといって帰っていった。また来るんだってさ。

夕飯はひさしぶりにカレー。僕はカレー、子供の頃から好きなんだよね。
 
第3回 ドキュメンタリーは生きている|地方メディアの逆襲|松本 創|webちくま(1/3)
特定のアカウントの主張を拡散するため、リツイートbot のようなものが大量にあるというのは、あんまり考えたことがなかったな。Twitter API の仕様はよく知らないのだけれど、そのようなものを作ることはそれほどむずかしくないような気がする。なんか、バカバカしい話だ。

そういう状況で斉加のようなテーマを取り上げれば、批判や抗議、ネット炎上もあるでしょう。会社は嫌がるやろうなあと思いつつ、私も歳のせいか、番組に対してネットで攻撃されようが、炎上しようが、まあ別にかまへんわという心境になってきましてね。いちいち気にしてもしょうがない、と。ただし、番組が提示した事実にだけは誤りがあってはいけない。そこだけはしっかり押さえようと言っています。ファクトさえ、こちらがしっかり持っていれば、批判や攻撃に動じる必要もないですから。

http://www.webchikuma.jp/articles/-/2190?page=3

ファクトといってもいろいろあると思うが、丹念な取材を通して、しかも取材をしながら真摯に考えていくという過程の上に得られた、つまりは「丁寧に作られたファクト」というものは貴重だ。というのは、最近ある種の学者・専門家たちを見ていると、ファクトの見せ方というものが気になることが少なくないからだ。最終的には、昔ながらの「人への信用」みたいなものが大事になってくるのかなと思わなくもない。それでも、ファクトがファクトなのは確かなのだが。


「規制緩和」で地方経済は疲弊する ~ 「規制緩和」だけが本当に正義なのか(中村智彦) - 個人 - Yahoo!ニュース
岐阜の中心商店街だった柳ケ瀬もとっくの昔にシャッター商店街になっている。反対に、郊外には大規模ショッピングモールが相当数ある。それで地方民の多くは、特に不満を感じていないのが現実だ。むしろ、大規模ショッピングモール内のきらびやかなショップで買い物ができて、喜んでいるような気がする。地方民の意識・無意識は「都会」にあるのかも知れない。わたしごときには悲しい感じもするけれども。でも、そういうわたしだって時にはイオンモールへ行ったりするのだ。
 誰か、これにおける金の流れを教えてくれないものだろうか。地方の金は、東京という「外国」へ吸い上げられていくものなのだろうか。「規制緩和」で地方経済は本当に疲弊しているのか。それこそファクトを知りたい。
 しかし、果たして金の問題だけなのだろうかということはあるな…。


確かに功利主義というのは已むを得ないところはある。特に国家の政策決定の上では。しかし、「最大多数の最大幸福」からあぶれた人間が、いま多数者からどういう視線を向けられているかだな。そういう観点から見ると、ネットというものはじつにおそろしい。これから、想像力を欠いたかしこい人たちの理論化もあって、それはさらに先鋭化するかも知れないのだ。