宇野重規『トクヴィル』

雨。
昨晩は「ソードアート・オンラインII」を日付をまたいで12話分も一度に見てしまったので、なかなか眠れないかと思ったが、そうでもなかった。後期おっさんのアニメの解体スキルもちょっとは上がってきたかなという(だから何だ)。とにかく前作のキャラクターたちが動いているのを単にまた見たかったという感じなのだが、先を見させようとするエンタメ的技術がすごくて、ついどんどん見てしまった。といってもあと二話見たら一段落らしかったのだが、さすがに疲れて中断しましたね。作品論みたいなのはいまは書かない。エンタメに強度をもたらすところの「エンタメにおける死の扱い」というものについては少し考えるところもあるのだが、まあそのうちに、機会があれば。

午前中、ごろごろ。

雨の中、米屋。車外は16℃だったから、どうりで涼しいわけだ。


図書館から借りてきた、宇野重規トクヴィル』読了。一昨日書いたように、おもしろい本だった。確かに近年トクヴィル云々とよくいわれ、わたしのような素人にもトクヴィルは気になる存在であったが、トクヴィルのどこに現代性があるかを、「平等」という観点を中心にまとめた本であるとわたしは受け取った。「平等」はよく「自由」と対になって使われるが、それらは必ずしも幸福に同居しないというのはこのところよく言われることである。しかし、この論点はあまりにもよく言われるので、わたしにはそれほどの新味は感じられなかった。むしろ、必然的に与えられた筈の「平等」ということを極限まで突き詰めていくと、ついには「秩序」というものが失われてしまうという考え方(p.104)が、わたしはトクヴィルの指摘として印象深かった。そして、デモクラシー(民主主義)というのは、そのような問題を原理的に孕んでしまっているのである。例えば、「平等」を基盤にするデモクラシーは、必然的に「権威」というものの価値を認めない方向に向かう。しかし、あらゆる「権威」を否定し、すべてを自分で考えるというのはよいことのようで、きわめてむずかしい。どうしても人々は、「多数性」というものを基準にして、物事を判断する方向に向かわざるを得ない(わたしはそれに、「自分を心地よくさせること=快楽性」を加えよう)。いま、インターネット上の SNS で生じているこの現象は、既にトクヴィルの考察の射程内にある。そのあたりが、わたしにはとてもおもしろかった。

上に書いたことから少しずれるが、現代日本において「権威」の典型として否定されるのが、必ずしも「象牙の塔」に拠る学者、知識人たちなどではなく、「朝日新聞」や「サヨ」といった存在なのだということはおもしろい。むしろ、インターネットで活躍する典型的な御用学者などは、「反権威」として人気があったりするのだ。そういえば、斎藤美奈子の「世の中ラボ」において、小説家の百田氏などは典型的な「反権威」としてふるまっているという指摘があったな。それにしても、「反権威」として「権威」を叩くというのは、何たる快楽であろうか! これは、一度やったら止められまい。それはよくわかるのである。

なお、わたしは上でデモクラシーの問題点のようなものを指摘したようでもあるが、宇野先生は徹底的にデモクラシー擁護の立場である筈である。わたしはそう読んだし、わたしだってデモクラシー擁護に異存はないのだ。

「優遇される弱者」への反発も、平等意識の現れだろう。それから、近年特にネットで「育ちのよさ」という語が異様にセンシティヴに使われていることも、ちょっと思い出した。いわゆる「文化資本」というやつである。また、「才能と努力と機会均等」の問題系。「がんばらない人は自業自得、救ってやる必要なし」とか。若い人たちはこういうことをしょっちゅう言うのであるが、そりゃ息苦しくなるよ、そんなことばかり考えていたら。