冷笑系の学者たち

晴。好天。

肉屋。

わたしはいろいろ矛盾しているよ。

日本学術会議へ推薦された六人の新会員が菅首相によって任命されなかったという報道がなされた。わたしは「日本学術会議」というものをよく知らなかったのでちょっとだけネットで調べてみた。で、この事件の印象だが、これはたぶん多くの人が思っているよりも重要なことなのではないかと感じた。憲法日本学術会議法の法解釈云々はもちろんわたしの手に余るが、それは措いても、これが政権による「学問のコントロール(管理)」への強い宣言であることは明白である。わたしは一般人としてこのことに危惧を覚える。
 また、これはアメリカその他においていまはっきりと現れている「国民の分断」が日本でも起きており、その分断せられたところの一方が(安倍政権を継承する)菅政権を盲目的に支持しているという構造にも支えられているでもあろう。国民の大部分がこのような政治的行為を強く非難するということにでもなっていれば、かかることが強行されることもなかっただろうに。
 なお、政権によって拒否された六人のうちに、宇野重規先生が入っていたのが個人的に印象的だった。わたしは別に先生のことをよく知っているものでも何でもないが、最近先生の『保守主義とは何か』を読んで感心したばかりであり、一昨日にも図書館で先生の本を借りてきたところだったからである。

上を書いたところでツイッターを覗いてみたところ、賛成、反対、だいたい予想どおりではあった。けれども、学者たちのかなりが冷笑系で、これも考えてみると納得した。そして、何かひどく不愉快な気分になった。何とナイーブなわたし。

まったく、一般人のクズでよかったような気になってくるよ。やなこった。

昼から、コメダ珈琲店各務原那加住吉店。ミニシロノワール+たっぷりブレンドコーヒー980円。宇野重規先生の『未来をはじめる』を読み始める。中高生を相手にした講義の記録で、とても勉強になる。人間がひとりひとりちがうがゆえに、対立は避けられない。政治はそれに関係しているという視点は興味深い。

三井山公園にでも寄っていこうかと思っていたのだが、途中で気が変わって愛知県まで足を延ばす。といっても、いつもの BOOKOFF江南赤童子店。特にラノベやマンガの棚の前をうろうろしていた。少しの知識を手がかりに、いろいろ背表紙を眺める。まあ、買ったのは伊藤比呂美さんと最果タヒ氏の文庫本だけれど。二冊で220円なり。
太ったオタクっぽいおじさんがわたしの前のレジ客だったのだが、かるたと小学生くらい向けの図鑑を購入していた。

帰りはいつもはあまり通らない道を選んで走った。なんとなく憂鬱。
帰宅したら、洗剤を入れずに食洗機を回していたのだって。ぼーっとしているな、わたしは。


夕飯はナスのミートソースグラタン。ポテトサラダは老母が作った。


今回も「地方メディアの逆襲」は心動かされる内容だった。
それはそれでいい。正直言って、わたしは感動した。しかし、こう書くだけで、わたしのこの文章は既に党派性をもって受け取られることになるだろう。サヨだから、というわけである。いかにも、わたしがサヨであることにまちがいはない。けれども、この記事に出てくる大阪毎日放送の斉加氏も澤田氏も、その仕事にあっては党派性は関係ない。そして敢ていえば、わたしのここでの感動にも党派性は関係がないのである。それが、単純な党派性をもって受け取られるところに、現在における「分断」を考える鍵のひとつがあるだろう。そう見做す「彼ら彼女ら」は、単純化がその戦略である。事実に基づかない、党派性を煽るキャッチーな短いフレーズ。丹念な取材に基づく報道を、そのようなもので簡単に覆してみせる。それがマシンガンのように乱発され、SNSで次々と拡散されることで、単純化はひたすら「やり得」になっていく。フェイクニュースは、やった者の「勝ち」なのである。そこまでして、「彼ら彼女ら」はいったい何がしたいのか。その恐るべき空疎さには、大変な快楽があるとしかいえない。たぶん、それがここまで長い年月を歩いてきた人間というものの到達した姿なのだ。

この関係性の貧困さは何か? それは、我々が無限と切れてしまったことと本質的に関係があるだろう(ちなみに、その点はサヨもまったく同じことである)。SNSなどは、むしろ末梢的なことである。もう少しレヴェルを変えていえば、あるいは感情が貧しい、か。わたしは、感情の現象学とでもいうべきを個人的に切実に必要としている。しかしそれは、たぶん哲学プロパー、乃至は文学プロパーのようなものではなさそうである。むしろ、ひとつのスキル、ひとつのメチエ、生きる態度のようなもの。ニセモノに取り囲まれた時代に、我々はニセモノとしてどう生きていったらよいのか。