管理社会と「共助」 / 河合隼雄『人の心がつくりだすもの』

晴。
昨晩は照明をつけたまま早く寝てしまい、深夜いったん目覚めるも、また朝まで眠る。10時間くらい寝た。まったく、何時間でも眠れる。明け方にフルカラーの印象的な夢を見たのだが、細部はよく覚えていなくて残念。見事にきれいな明るい海を見ていて、海の上で何かやっていた(?)のを見物していたのだが、さて何だったのか。あとはわたしのよく見る、電車で移動する夢。行き詰まっているのがそのまま夢に出ていたようだ。

しかし、このところじつに本を読んでいませんね。わたしは到底読書家ではないなと思う。

涼しい。きれいな青空、トンボがたくさん飛んでいる。

午前中、甥っ子の勉強を見る。

昼食は甥っ子とラーメン屋へ行くも、駐車場が空いてなくて結局いつもの「ひぐち」にする。
甥っ子を名鉄岐阜駅まで送る。

昼寝。いくらでも眠れてなんなのという感じだけれど、たぶん高校数学で疲れたのだろうな。だんだん頭が使えないようになっていくのだろうと思う。おっさんだから。


夕方、散歩。涼しくなってきて、ようやく散歩できるようになった。生きる楽しみがひとつ増える感じ。


以上二枚は、ウチの庭にて。













わたしの散歩コースに、そのうち大きい道路が通るらしい。


夕飯は鯖の塩焼き、カボチャを炊いたもの、キュウリとキムチとツナのサラダ。ふつうの献立です。

webちくまの大塚英志戦時下の『共助』論――防毒マスクと『女生徒』」を読んだ。大塚の文章の多くには「言いたいこと」があるのだが、その語り方はいつもわかりにくく、論理がどちらを向いているのか読み取るのがむずかしい。この文章では次期総理と目される現官房長官の「自助・共助・公助」なる言説(?)を disりたいというか、そういう意図はほぼ明白で、その中でも「共助」が全体主義(大塚はこの語をここで一度も使っていない筈だが)を思わせると言いたいのだとわたしは思う。しかし、大塚の記述はあいかわらず迂遠で、ここでもどちらを向いているのかわかりにくい。それに、ネット民なら「なげーよ」というだろうしな。ついでに、また花森安治をぶん殴っているし(大塚はよほど花森が気に入らないというか、むしろ花森礼賛者が気に入らないのか)。前回(だったかな)の文章でも現在を昭和の戦時下と比較していたが、それはどういうものだろうか。わたしも現代の「全体主義化」のようなものは強く感知するが、わたし個人としてはあまり「全体主義」という言葉を使いたくない気がする(いや、大塚も使っていないけれど)。というのは、わたしは現在起きているのは、昭和の戦争とはちがうところから発しているものだと思うから。わたしは、現在の「全体主義化」(と敢ていえば)は、コロナ禍ではっきりと表に出てきたのは事実だけれど、それはたまたまコロナ禍が起きたからそうなだけで、本質的にはパンデミックとはあまり関係がないと思う。むしろ、近年ずっとその流れが強くなってきていた、世界の「管理社会化」に関係があるのであり、それは(昭和の戦争のような)非常事態云々とはかかわりがない。むしろ、それだから恐ろしいのである。例えばそれ(管理社会化)は、いまでは誰もがもっている(わたしは時代遅れなのでもっていないが笑)スマホと、強くリンクし始めているといっていい。
 いずれにせよ、大塚の文章は面倒なもので、また読み直してみるかも知れない。

インフラストラクチャとしてのインターネットの本質はいまでも依然 IP網にすぎない。しかし、我々の生がますますインターネット上に移行しようとしている現在、国家がインターネットを管理しようとするのはまったく驚くに値しない。既に中国ではそうなりつつあるが、スマホなしでは生きていくことができない時代が近づいている。我々の生はスマホ(あるいはそれに替わる電子デバイス)によって根底から管理され始めている。スマホは我々の「拘束条件」になりつつあるといってもよいだろう。

しかし、大塚に触発されて考えてみると、管理社会と「共助」というのは大変におもしろいというか、射程の長いテーマであるな。コミュニティというのは、柄谷行人などが希望と見做していた対象であると思われるのだが(柄谷は「アソシエーション」といっていた)、それを打ち砕くような現実になってきているのかも知れない。新たな「監視空間」が誕生しつつあるのだろうか。わたしは知らない。

図書館から借りてきた、河合隼雄『人の心がつくりだすもの』読了。対談集。今日読んだのは第四、五、六章で、その森村泰昌さん(第四章)と宮田まゆみさん(第五章)との対話がすごかった。深い人というのはほんとに深いもので(って何も言ってないに等しいが笑)、河合先生もそれでどこまでも深くなっていって、到底かなわないなあと思ってしまった。ま、深い方はすごい苦労をされているので、平凡人(わたしごときでも苦労したことはあったけれどね)でよかったというところか。ちなみに、今江祥智さんという方は名前しかわたしは知らないが、この人との対話(というか、今江さんひとりで突っ走っているだけだが)はわたしにはまったくつまらなかった。わたしのアンテナには引っかからなかったのだな。

人の心がつくりだすもの

人の心がつくりだすもの

  • 作者:河合 隼雄
  • 発売日: 2008/06/18
  • メディア: ハードカバー
河合先生の有名な「箱庭療法」だが、クライアントが箱庭を作っているとき、先生は横に立っているだけで何もしないのだけれど、それがクライアントとのすごい「勝負」なんだとさらりと仰っていたのが印象的というか、すごかった。これはよくわかる。だから、クライアントはひとりで箱庭を作っているようで、じつはそうではないのだと。また別のところで、先生はクライアントと向き合っているとき、「俳優」(になることもないではないが)というよりは、「舞台」なのだと仰っていた。わかるわかる。わたしが塾の先生をやっているとき、わたしは「舞台」じゃなかったから、ダメなところがあったというのは、いまだとよくわかる。ひどく浅かったのだな。