こともなし

晴。
点と点を繋いで、バスと電車で行って帰ってくる夢。

午前中、母診察。MRI検査の結果は転移ではなかった。これで形成手術の話に入ることができることになった。

昼食はモスバーガーのドライブスルーにて。

酷暑。浜松では気温が41℃を超えたそうだ。


珈琲工房ひぐち北一色店。斎藤環の『ひきこもりから見た未来』を読み始める。10~15年ほど前のエッセイを集めた古い本だが、いまでも読むに堪える文章が少なくない。斎藤環先生は「若者文化に詳しい」精神科医で、わたしは以前はそれほど好きでもなかったのだが、次第にリスペクトするようになった。さて、わたしがいわゆる「ひきこもり」であるかは自分ではよくわからないが、このところ現象的に見てまあ引きこもっているのはまちがいないだろう。斎藤先生が指摘するように、「ひきこもり」は追い詰められた自己肯定感の乏しい人たちで、他人との関係性をうまく持てず孤独であるとなると、もはやそんなにめずらしくないというか、「ひきこもり」でなくても多くの人に心当たりがあってもおかしくないのではないだろうか。いまや他人とのコミュニケーションがむずかしく、むしろ「ひきこもった」方がラクというか。まあ、そこまでいうといいすぎだろうが、本書を読んでいると「あるある」感を多く覚える。
 また、多くの人が精神科医メンタルクリニックを訪れるハードルが、以前よりはずっと低くなったのも実感される。かかる風潮を嘆かわしく感じる人ももちろんまだまだ多いだろうが、そういう人が幸運な人生を歩んでいるのはまちがいないところであろう。人間の心は、条件が揃えば結構簡単に「病んで」しまうものである。ほとんど、運不運の問題とすら思える。そして、心を「病んだ」人たちは、いわゆる健常者(というよりも最近は発達障害の関係で「定型発達者」という方がPC的によいらしいが)よりも、より社会の特徴を強く映し出す「鏡」になっている。例えば「ひきこもり」というのは日本特有で、ヨーロッパなどではこれが若者のホームレスになるのである。「ひきこもり」はどこか甘ったれたような感じがするかも知れないが、若いホームレスというのも社会的に大問題で、日本ではかかる社会的大問題を「家族」というものが吸収し、社会の前景に押し出させずに済んでいるという「効用」があることを、斎藤先生は何度も指摘している。そして、「ひきこもり」が次第に追い詰められているのが、漸次的な家族の崩壊ゆえであることも、また彼らの存在が可視化せしめているのだ。家族というものが幸福の基盤であるからこそ、「炭鉱のカナリア」であるところのある種の人たちに、注目すべきであるといえるのである。

ひきこもりから見た未来

ひきこもりから見た未来

  • 作者:斎藤 環
  • 発売日: 2010/06/29
  • メディア: 単行本
これまで読んだところでは、本書に「発達障害」の文字はないが、いまなら「ひきこもり」よりも「発達障害」の方が遥にメジャーな問題になったといえるだろう。いまは「心の病」の問題としては、鬱と発達障害の時代であるという印象がわたしにはある。共に、ネットと親和性が高く、特にはてブ発達障害に敏感なウェブサービスではないだろうか。「発達障害」ということで苦しむ人はいまや多いが、ラベリング(名付け)として議論もまた多く、一言で「発達障害」といっても、多種多様な現象を指していて、無知なわたしには非常にむずかしい。はてブ(に限ったわけではないが)では「発達障害」の言葉を安易に使う人が少なくなく、以前わたしが見かけて驚いたのは、仕事上で「発達障害」の人を部下にもっていろいろ苦労していることをネットに匿名で書いたその人が、はてブで「発達障害者ではないか」と大いに叩かれた事例だった。そして、こういうことを書くわたしが発達障害者と見做されてもおかしくないという、これがネットの雰囲気で、発達障害で苦しむ人たちとはあまり関係ないところで、発達障害が時代の雰囲気とシンクロしているところがある。正直言って、そこいらはわたしの理解を超えているところがあるのが本当のところだろう。
 そういえば思い出したが、発達障害と関連して使われることが少なくない「コミュ症」という言葉があって、これもネット上であまりよくない意味で広く流通している。いまの時代がいかにコミュニケーションという視点を強く照射するか、これが明らかにしているといえる。「ひきこもり」という語は、ネット上では「コミュ症」に吸収された感もあるな。知らないが。

ソードアート・オンライン」第11話まで見る。
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