志村真幸『南方熊楠のロンドン』

雨。
昨晩は朝永先生の教科書の第五章を読んで寝る。

長時間ごろごろする。

曇。
昼から珈琲工房ひぐち北一色店。志村真幸『南方熊楠のロンドン』を読み始める。アカデミズムから離れたところで知的活動をしていた熊楠を、秀才がアカデミックに斬り刻むということをつくづく感じる。確かにこういう仕事も必要ではあろう。しかし、アカデミズムとは何なのかということは本当に思うな。熊楠をアカデミックに「正当に」評価するということに、どれほどの意味があるのか。まあ、いいんだけれどね、好きにやれば。

図書館から借りてきた、志村真幸『南方熊楠のロンドン』読了。

本書でおもしろいのは、『ネイチャー』や『ノーツ・アンド・クエリーズ』といった、現在の学術雑誌の創成期の研究であろう。これは熊楠研究から始まっているが、それとは離れた価値をもっているかも知れない。それにしても、「南方熊楠顕彰会理事」「南方熊楠研究会運営委員」という人が、熊楠のことが特に好きというのでもなく、何でこんな人物(=クズ)を研究しているのかと嘆きたくなったりするとか、なるほどなと思う。それがアカデミックな「学問」というものなのであろうな。

録画しておいた、BS1スペシャル「証言ドキュメント 天安門事件30年」を観る。
20200727231003
20200727231013
先日読んだ、安田峰俊『八九六四 ――「天安門事件」は再び起きるか』(参照)を補完する内容だった。特に、共産党指導部内部での権力闘争の帰結として、武力鎮圧に至ったという視点は、勉強になった。また、事件の凄惨な画像・動画(血まみれの学生、戦車に両足を潰された人、死体も含む)は強烈なインパクトをもっていて、こちらまで恐ろしくなってくるようなものだった。しかし、事件の記憶が既に中国でほとんど風化しているということに関しては、甚だ微温的な描写だったと言わざるを得ない。インタビューもただ当事者に語らせるのみで、隔靴掻痒の感を免れなかった。そこいらは、いわばツッコミが足りなく、優等生的な番組である。と、安田峰俊氏の本を読んだあとなので、そんな感想をもった。事実を羅列しただけでは、なかなか優れたドキュメンタリーにはならないのだな。考えさせられるところがあまり多くなかったとでもいうか。いや、ここまででもよくやったというべきかな。