晴。
NML で音楽を聴く。■バッハのチェンバロ協奏曲 ト短調 BWV1058 で、チェンバロはフランチェスコ・コルティ、イル・ポモ・ドーロ(NML、CD)。■アルヴォ・ペルトの「スターバト・マーテル」で、指揮はグラハム・ロス、ケンブリッジ・クレア・カレッジ聖歌隊、ドミートリー・アンサンブル(NML、CD)。■ショパンのスケルツォ第一番 op.20、第二番 op.31、第三番 op.39、第四番 op.54 で、ピアノはアンヌ・ケフェレック(NML)。よくいえば粗削り、悪くいえば乱暴なピアノだが、ついスケルツォ全曲を聴いてしまった。これを聴いていると、わたしはスケルツォは中間部が特に好きなのだなあということがわかる。ピアニストは若手かと思ったら、ちがっていた。
■シューベルトの八重奏曲 D803 (NML)。非の打ち所のない演奏。
- アーティスト:Merlin
- 発売日: 2020/04/10
- メディア: CD
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学びの森の駐車場に車を置いて、45分ほど散歩。いつものごとく、人影が見えたら避けるというルール(?)。
学びの森の東。
ツグミ。
中部学院大学各務原キャンパス東。道がピンクなのはじつは落花の絨毯である。
新境川。
薬師寺別院。
夜、グロタンディークの『収穫と蒔いた種と』を読み始める。強い印象を受ける。わたしはこのところ「(精神の)貧しさ」を探究していたことに気づく。どうしようもない、強固な「精神の貧しさ」。それはわたしの貧しさがベースになっているが、確かにそれに留まってはいない。しかし、それはそもそも探究が可能なものなのか? そして、可能だとしても、それに意味などあるのか?