こともなし

雨。
よく寝た。美しい田舎をドライブするフルカラーの夢を見る。立ち並ぶ百姓屋が立派で、夢を見ながら感動した。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第十番 K.330 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。

午前中、甥っ子の勉強を見る。駅に迎えに行くとき、雨がすごかった。九州では大変なことになっているようだ。

昼から県図書館。医療器具販売店

秋月師の『無門関を読む』を読み始めた。秋月師の本なのでたぶん持っているし既に読んでいるように思うが(まったく覚えていない)、図書館で立ち読みして借りたものである。禅の具体的な「公案」を紹介して秋月師の思うところを記したもので、読み始めてすぐに安永老師の『笑う禅僧』を想起した。同じ公案を扱っているところもあって、非常におもしろい。もちろんわたしは禅の人ではなく、これらの書物から禅のきびしさをつくづくと思い知らされるのである。正直言って禅の本など読まない方がよいくらいだとわたしは思っていて、何しろわたしは運がよかった。いや、それこそ小林秀雄などを読んで「文章」を見る目を養ってきていたので、まあ運がよかっただけでもないかも知れないが。よく「禅語録を読むのが好き」なんて人がいるが、こういうのは甚だ危険なので、たいていはそれでわかったような気がして何か体験もあって、そして知らぬうちにますます煩悩を強固にするのがオチだからだ。これは何も知らないよりも遥かに悪い。いってみれば地獄に落ちて当然である。
 さて、何がわたしはいいたいのか。ワタシハワカッテイルとでもいいたいのか。本書を読んでも『笑う禅僧』を読んでも、わたしには禅の公案はさっぱりわからないといってよい。当り前である、本当に真剣に公案と向き合っている人は、それになりきろうと命を懸けているのだから。本なんかを読んだだけで、禅がわかる筈がないのだ。わたしはここでも「文体」を読んでいるだけなのかも知れない。それがわたしの「なりきり」だとはいえるかも知れない。仮にそれがいくらまちがっていても、わたしにはどうしようもないのである。

いつもいうことだが、わたしがどうしようもない未熟者だということは強調しておこう。わたしの「仏教」は「オレオレ仏教」にすぎない。わたしはいまでは通る人も稀になった道をとぼとぼと歩いていて、遥か彼方に先人たちを見る孤独なおっさんにすぎない。日暮れて道遠し。

何しろブッダは「天上天下唯我独尊」であるし、禅は「仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺す」のである。仏教を齧れば誰だって「自我はない」くらいのことはいうが、じつは仏教では自分しかいないのだ。そういうことなのだが。

Linux Mint 用の Google Chrome のバージョンが全然更新されていないことに気づく。ぐぐってみるとどうもレポジトリが追加されていないようだ(参照)。見てみると確かに /etc/apt/sources.list.d/google.list がない。というわけでリンク先どおり

sudo sh -c 'echo "deb [arch=amd64] http://dl.google.com/linux/chrome/deb/ stable main" >> /etc/apt/sources.list.d/google.list'

を実行。あとはいつもどおりシステムを更新するだけ。