鈴木大拙『金剛経の禅・禅への道』

晴。涼しい。
よく寝た。

起きて二時間くらいぼーっとしてまた二時間くらい寝た。ちょっとすっきりした。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトのピアノ・ソナタ第九番 K.311 で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。

昼から三時間くらいごろごろしていた。さすがに眠ることは無理。

まだ暑いことは暑い。
ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック プレーン+ブレンドコーヒー410円。何もする気が起きないが、ころがってばかりいても仕方がないので頑張って(?)やってきた。何を読む気もしないので、鈴木大拙を読む。鈴木大拙もまたなかなか真剣に読まれてはおらず、いろいろなところで否定されているが、わたしは自分の超未熟さを体験的に大拙に教えてもらっているので、大拙の価値は確信している。というか、別に大拙がまちがっていて自分は騙されているだけでも一向に構わないのだが、しかしそういうわけではないことを自分は知っているといってもよい。まあ、大拙は自分の遥か彼方を進んでいるので、わからないといえばわからないのだが、わからなくたってわかるのである。そんなことをいっても仕方ないので、そうなると黙った方がよいということになるが、実際そうなのだろうけれどね。でも、大拙が「世界の禅者」となったのはまぐれ(?)でも偶然でもないのだけれど。それが気に入らない人はじつにたくさんいるので、つまらないことだなあと思う。何だか知りませんが。付け加えておけば、わたしはまだまだクズである。一向に未熟者から脱せない。

カルコスに寄る。わたしはおっさんなので、若い女性が一心不乱に文庫本を立ち読みしている姿は何となくよかった。中公文庫の『小林秀雄 江藤淳 全対話』を買う。

そういや先日読んだ南師の仏教本で、大拙が比喩で言っていることをまともに実体化して受け取っていて、じつにうんざりさせられたものだ。クソが言って申し訳ないが、これでは全然お話にならないのである。仏教に縁なき衆生とはこういう高僧のことをいうのだろうかと思う。どうでもいいのだけれど。しかしいったいわたしは何様なのだ。

秋月師が書いておられたが、「心理禅」がじつに多い。南師も悟りとやらを意識の変容状態と捉えて攻撃しておられたが、それそのものが(いくらちがうと仰ったところで)「心理禅」の典型である。わたしはうんこであるから、「心理禅」などはどうでもよい。縁なき衆生は度し難いのである。しかし、こんなことを書いていること自体がわたしがダメなことの証明なのだけれどね。

安永老師が書いておられたが、水道の蛇口から炎は吹き出さないのである。

さて、ごろごろするか。

心の基礎は、生きとし生けるものへのかなしみ、あわれみの感情である。何をあまったるい幼稚なことを言っているのだと思われるかも知れないが、これは本当のことである。これを忘れてしまえば、たとえどれほど「修行」したところで飛んでもないところへ連れていかれてしまうだけだ。坊主でも、この基本ができていない者が少なくないと観察される。心の土台をおろそかにしてはいけない、これは未熟者の自分にいうことである。

図書館から借りてきた、鈴木大拙金剛経の禅・禅への道』読了。何度繰り返して読んでもよい本であろう。またそのうち借りてくるかな。

鈴木大拙禅選集〈第4巻〉金剛経の禅・禅への道

鈴木大拙禅選集〈第4巻〉金剛経の禅・禅への道