飯山陽『イスラム教の論理』

曇。

NML で音楽を聴く。■バッハのイタリア協奏曲 K.971 で、ピアノはスヴャトスラフ・リヒテルNML)。コチシュが「(かわいそうに)リヒテルは一文なしで死んだ」と言っていて、本当かどうか知らないがそれが仮に正しいとして、どういうことなのかちょっと考えている。そういやバルトークアメリカで窮死したな。

Richter Plays Bach

Richter Plays Bach

 
晴。
県営プール。

夕方、ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。宇治抹茶ホイップ+ブレンドコーヒー399円。飯山陽『イスラム教の論理』を読む。まだ半分ほどしか読んでいないが、非常に興味深い本だ。「イスラム国(IS)」はこのところ日本では話題に上らなくなったが、その「イスラム国」の主張はイスラム教の「異端」どころか、イスラム教のいわば「正統中の正統」であり(つい「正統」と書いてしまったが、これは後述するように比喩である)、日本における大部分の「イスラム国」理解はほぼ完全に誤っているという主張がなされている。そしてそこから、イスラム教の「真の姿」を描き出そうという試みがなされている。著者の舌鋒は大変に鋭く、「イスラム国」を否定するイスラム法学者たちは国家の「御用学者」であるとまで主張される。なんというめちゃくちゃな主張と思う人は少なくないであろうが、本書は注意深く論理的に記述されており、わたしは著者の主張が妥当であると考えざるを得ない。イスラム教はコーランの記述がすべてなのであり、神は絶対、コーランも絶対で、そもそも「イスラム法学者」は例えばキリスト教における「正統(オーソドキシー)」ではない(同じ意味で、イスラム教には「教会」もない)。イスラム教には「正統」はなく、「イスラム国」がまちがっているというイスラム法学者たちと「イスラム国」の主張は(上下の差別がないという意味で)完全に同レヴェルであり、どちらかを選ぶのかは個々のイスラム教徒の判断に委ねられるものなのである。さらにいうと、一般のイスラム教徒にふつうに親しく思われるのは、「イスラム国」の主張の方なのだと…。
 本書を読むと、イスラム教はなかなかに日本人の理解を超えたところにあるということを痛感させられる。しかしそれは日本人にとってだけのことではなく、キリスト教徒にとっても同じことなのだ。しかし思うのだけれど、イスラム教徒には「世界征服」は疑いもなく義務なのであるが、一方でイスラム教徒に対するアンケートでも、「イスラム国」を支持するという人たちは精々10%以下であるらしい(これも本書に拠る)。非イスラム教徒は殺すべきであるとコーランは言っているが、神は絶対、コーランも絶対な筈のイスラム教徒でも、ほとんどの人はそれを「無視」している。つまり、その意味では「敬虔でない」。実際、著者も非イスラム教徒だというだけで、イスラム教徒から命を狙われたことはないとはっきり記しておられる。そこらあたりが、わたしには興味深い。さらに読む。

イスラム教の論理 (新潮新書)

イスラム教の論理 (新潮新書)

 
帰りにカルコスに寄る。AI、機械学習以外におもしろいプログラミング本がないかなあと思うが、なかなか見つからない。


飯山陽『イスラム教の論理』読了。繰り返すが、非常に興味深かった。人間というものの存在そのものが厄介なのだという他ない。フランス現代思想に「他者」という概念があったが、まさしくイスラム教徒は、話の通じない、「絶対的な他者」なのか。それは、ヨーロッパ思想にない発想かも知れない。正直言って、わたしごときに思いつく解決策など何もないとしかいえない。果たして、一般のイスラム教徒に非イスラム教徒に対する共感は一切ないのだろうか。あるいはそのような「共感」は、イスラム教徒としての堕落なのか。そして、正しいイスラム教徒には本当に「人生を楽しむ」という発想そのものがない(p.220-222)のか。考えさせられるものがある。一方で、著者はイスラム教徒と非イスラム教徒はどちらかが絶滅するまで殺し合う他ないとまでは述べていない。著者のイスラム教理解を推し進めると論理的にはそこまでいく他ないと思えるが、著者もさすがにそこまでは信じていないのだろう。いやしかし、わたしには何がなんだかわからないのだが。
 なお、当り前のことであるが、以上の感想はあくまでもわたし個人の読みである。いいかげんに読んだつもりはないが、理解力と文章力の不足で著者の考えを歪めている虞がないとはいえない。著者の考えを知りたければ、あくまでも本書そのものに就いて頂きたい。

著者の主張が腑に落ちるところがあるのは、ヨーロッパ各国がイスラム教徒とは共存不可能であるという立場を選びつつあるという事実ゆえである。イスラム教は、人権や自由、民主主義などという西欧的価値観と本質的に相容れないと、ヨーロッパ各国もイスラム教徒も思うようになりつつあるからだ。事態が好転することが、これから果たしてあるのか? それに比べると、日本ではまだまだそこまでは突き詰められていないという意味で、気がラクなのかも知れない。将来どうなるかは知れないが。