四方田犬彦『すべての鳥を放つ』

晴。
 
www.shunyodo.co.jp春陽堂書店の HP で岡崎武志さんの日記の連載が始まった。はてなダイアリーの日記は愛読していたので、終ってしまって残念に思っていたからよかったよかった。

昼から二時間ほど寝る。


暑い。外は30℃以上ある。
珈琲工房ひぐち北一色店。四方田犬彦さんの『すべての鳥を放つ』という小説を読む。(以下、ひどくネタバレしているので注意。)とりあえず、1972年に主人公が東都大学(=東京大学)に入学したところの第一章を読んだが、読むのが本当に苦痛だった。背伸びする学生たちの聞いた風な青臭いセリフが笑止で、わたしのような人間をウンザリさせようとした著者の目的はまずは見事に達成されたと思う(冗談です)。しかしこんなものが苦痛だとは、わたしもまだまだ未熟すぎるのが明らかだ。かつてわたしも田舎出のクソ生意気な学生だったことはまちがいないが、本書第一章とは時代がまったくちがうともいえよう。しかしもちろん、わたしの方がマシだったとかは毛頭言えないが。そして、じつにナイーブな主人公(山陰の田舎から東都大学に入学した学生)はおそらく四方田さんその人とはまったくちがった設定なのだとは思う。さて、このあと小説はどのように進んでいくものであろうか。

短い第二章読了。これも読むのが苦痛だ。舞台は 1980年のパリで、主人公は旧友たちに会う。いわゆる「フランス現代思想」のスターたちのうわさ話。ほう、李家堂直輔か、これは中沢さんのことで、以前にもこの名前で四方田さんの本に出ていたっけ。登場人物たちにボロクソに言われている。主人公は六年間会っていない、かつて自分が好意をもっていた女性のことをうじうじ思い出している。そして友人の妻のことがしきりと気になっている…。

第三章。だんだん四方田節に慣れてきて、おもしろくなってくる。1984年の東京は、前年の「ニューアカの年」に継続するものとして描かれている。軽薄な才子・李家堂直輔の姿がところどころで見られる。それから四方田素子雄(すねお。笑)という、英語も碌に読めない、中上健次の凡庸な腰巾着がじつに何度も登場して、醜態を晒している。すべてがニセモノだ。ある場所で中上健次が主人公に不思議な言葉を掛ける。最後は幻想小説的な世界が現出し、物語が一気に展開する…。たくさんの実在する人物が、実名で名前だけ(中上健次以外は、実際にキャラクターとしては現れない)登場している。

図書館から借りてきた、四方田犬彦『すべての鳥を放つ』読了。ふーむ、最後は某のシーンで終了するのか。なんかヤケクソだな。まあおもしろくないことはなかったが、四方田さんはいったい何がしたかったのかな。わたしのような凡庸な田舎者には見当のつきにくい世界である。四方田さん、また嫌われそう。

すべての鳥を放つ

すべての鳥を放つ

自分には文学はよくわからないが、本書は小説としてそれほど出来がよいようには思えない。李家堂直輔や四方田素子雄は本筋には関係のないただの点景だが、それらの滑稽がなければ自分は本書を読み通せなかったように思われる。

ツイッターを見ていると、オレはかしこいですといって実際にかしこいクズもたくさんいるし、オレはクズですと言って実際にクズな人間もまたたくさんいてじつに凡庸であり、ああネットってめんどうくさいなと思うよまったく。蓮實重彦先生の仰るとおり、現代にあっては冴えた人間など原理的に存在し得ないのである。まあ、蓮實先生とかは例外なのだろうけれど。そのあたりのメタ・ポジションの取り合いの不毛(というか一種のビョーキ)は、東浩紀さんなども早くから指摘しておられたな。

マジめんどうくさい。

島田雅彦さんの『人類最年長』という小説(何てひどい題だ)は、とても読み続けられず挫折。ごめんなさい。


吉本さんは頭がよいというのは一種の「病気」だとすら見做していたようだというのは中沢さんがぽろりと漏らしている読みであるが、これは吉本さんの読みとして卓見で自分もまさにそのとおりだと思う。吉本さんだってふつうに、というかふつうよりはずっと頭がよかったのであるが、吉本さんは己が「ふつうの人」であることを確信していたし、またそうあろうともしていたのはまちがいない。吉本さんのいう「大衆の原像」という言葉はあいまいで、多くの人がそれは何だと吉本さんに定義を求め、吉本さんも実際にそれに回答しているが、じつのところは吉本さんには明らかな(しかしうまくは言われない)ことであったに決っていると思う。そんな問いかけをすること自体が、吉本さんをよく読めていなかった証拠にちがいはない。
 何でそんなことを書くかというと、先ほど読んだ四方田さんの小説は、その「病気」に関するそれのように思えるからだ。それにしても、いまやネットからわかるのは、どんな(ふつうの)人でも、自分の「頭のよさ」(でも「趣味のよさ」でも何でもいいが)を他人に示したいという強烈な欲望をもっているという事実である。誰も他人に対して何かで「マウントを取りたい」し、マウントを取るなど馬鹿らしいというマウントの取り方もある。まさにこれこそ煩悩そのもので(わたしもそれから自由でない)、ブッダの頃から人間は何も変っていない。まあ何でもよいのだが、マジめんどうくさいというのはそのことなのだ。

さて、老母から廻してもらった橋本治さんでも読むか。楽しみだ。