井筒俊彦『存在の概念と実在性』 / 青澤唯夫『名ピアニストの世界』 / J・L・オースティン『言語と行為』

雨。

昨晩寝る前、図書館から借りてきた井筒俊彦『存在の概念と実在性』読了。井筒俊彦英文著作翻訳コレクションの一冊。

 
NML で音楽を聴く。■バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第二番 BWV1003 で、ヴァイオリンはヤッコ・クーシスト(NMLCD)。これよいな。■モーツァルトのフルート協奏曲第一番 K.313 で、フルートはアンドレア・グリミネッリ、指揮はロジャー・ノリントン、カメラータ・ザルツブルクNML)。むしろ古楽器での演奏が当り前になったが、モダン・フルートもよいものだな。
モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲

モーツァルト:フルートとハープのための協奏曲

 
朝寝(?)。

ハイドン弦楽四重奏曲第四十三番 Hob.III:58 で、演奏はアマデウス四重奏団(NMLCD)。この頃のアマデウスQ はシャープだな。なるほど、DG が契約したのもわかる気がする。しかしハイドンいいね。■ベートーヴェンのピアノ協奏曲第三番 op.37 で、ピアノはルドルフ・フィルクシュニー、指揮はジョージ・セルチェコ・フィルハーモニー管弦楽団NMLCD)。いやあ、これは思っていたよりずっとおもしろい演奏だった。まずセルは全篇にわたって辛口で、とってもすばらしいです。で、フィルクシュニー(よく知らない)は悪くないのだが、ちょっとセルとミスマッチかなあ…などと思いつつ聴いていたら、次第にフィルクシュニーがおもしろくなってきた。この人はそんなに大きなピアニストではないのだが、深さがあって、熟したところもあって、つまりは古典的な演奏家だと思う。録音状態はあまりよくないのだが、どうも美しい音をもったピアニストっぽい。終楽章などはかなりカッコいいですね。巨大なセルに包まれながら、ミスマッチもおもしろい演奏だった。昔の演奏は個性的なのがあるな。1963年のライブ録音。■リストの「シューベルトの十二の歌」 ~ No.1 Sei mir gegrüsst, No.6 Die junge Nonne, No.3 Du bist die Ruh, No.2 Auf dem Wasser zu singen, No.11 Der Wanderer で、ピアノはレオン・マッコウリー(NMLCD)。このピアニストが聴くべきそれであることを確信した。それから、シューベルトの「さすらい人」のリスト編曲版を初めて聴いた。これまで「さすらい人」幻想曲 D760 の解説において言及されていることが多かったので、気になっていた。まあ、そう大した曲ではない。


ミスタードーナツ イオンモール各務原ショップ。もっちりフルーツスティック シナモン+ブレンドコーヒー410円。青澤唯夫という音楽評論家(よく知らない)の『名ピアニストの世界』という本を読む。うーん、何だかなあという感じ。以下とてつもなく何様的なことを書くが、お許し頂きたい。さて、著者はきちんと音楽理論も修められているようだし、ピアノを弾かれるようだし、音楽評論家としての水準では聴けているのだろうとは思う。少なくとももちろんわたしよりは聴けているのだろう(当り前だ)。それに、有名演奏家たちと職業柄あるいは個人的に交わした会話が挿入されているのも、それなりに参考にならないことはない。ただ決定的なのは、この人は文章の力がいまひとつだ。時に美文的な文章になったりもするが、どうにも魅力的でない。それなので、100ページも読んでいるとこちらの集中力が切れてくるのはどうしようもない。それに、言ったら悪いが、ピアニストの評価もまあふつう(?)のもので、特にピアニストに新しい魅力を発見できるわけでも(自分には)ない。とにかく、「音楽評論家」というのは何よりも文筆家なので、文章に魅力がないのはつらい。そう思うと、吉田秀和さんは別格として、青柳いづみこさんも片山杜秀さんも文章の力があるのは偶然ではない。というか、文章を見ていて、その人がどれくらい聴けているのか、わかるところがあるように思う。以上、わたくしのごときクズが大変に失礼なことを書きました。さて、何とか続けて読めるだろうか。

よく考えてみたら、青柳いづみこさんも片山杜秀さんも、職業的な「音楽評論家」ではないな。何かを暗示しているような事実である。

図書館から借りてきた、青澤唯夫『名ピアニストの世界』読了。途中から速読・拾い読みになった。上に書いたのに特に付け加えることはない。わたしには退屈というしかない本だった。ひどいことを書いてごめんなさい。

名ピアニストの世界

名ピアニストの世界

 

J・L・オースティン『言語と行為』読了。飯野勝己訳。発話行為を「コンスタティヴ」なものと「パフォーマティヴ」なものに大別し、それらの概念を使って発話行為を分析した、有名な書物である。若い頃読んでいたいろいろな(哲学)本で言及されていたもので、一度は読みたかったのだが、この度文庫版新訳が出たので読んでみた。中身については、わたしなどが語るまでもないだろうが、ひとつ書いておくと、本書はオースティン自身が出版したものではない。オースティンは48歳で亡くなった早世の学者であり、本書は講義ノートなどから構成されたものである。デリダによる批判は有名だし、日本では東浩紀さんが若い頃よく言及していたのを思い出す。あと自分が思い出すのは、オースティンの理論とは関係なく、林達夫が言語を「表現」と「伝達」に分けて論じた文章で、前者はオースティンの「パフォーマティヴ」、後者は「コンスタティヴ」の概念に近い(林達夫「言語の問題」。『思想の運命』所収)。ああ、林達夫はよく考えていた人だったなと、あらためて思う。まあ、そんなところです。

言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫)

言語と行為 いかにして言葉でものごとを行うか (講談社学術文庫)

 

熊野純彦訳のヘーゲル精神現象学』を読み始めた。わたしに『精神現象学』がわかるという気はしないのだが、まあ読む気分になったので読み始めたところである。そしたら、熊野訳は非常に読みやすい。ちょっとおもしろくなったので、さっそく低レヴェルな感想文を少しだけ書き付けておこう。まず「序文」を途中まで読んだところであるが、この「序文」は絶対に読み飛ばしてはいけないところだと思う。その解説を書くつもりも能力もないが、さてヘーゲルが数学は不完全な学であると徹底的にこき下ろしているのがとてもおもしろい。ヘーゲルユークリッド幾何学を数学の典型と見做していて攻撃しているが、どうも数学の知識はその程度であったようである。で、「応用数学」といっているのはたぶん物理学だろうか、これに関する知識はほとんどないのではないか(知らんけど)。そして、数学に対する非難がおもしろい。ヘーゲルは数学が「必然」ではないことを論難しているように思われるのであり、それは例えば「(幾何の問題を解くための)三角形における垂線の引き方が、必然的にではなく、どこからやってきたのかわからないような仕方で引かれる」ということが気に入らないらしい。なお、ヘーゲルはそういう風に言っているのではなく、もっともっと面倒な、わかりにくい言い方をしているのだが、勝手に自分の理解で書いておく。わたしにはヘーゲルのこの非難は非常にふしぎなものに感じる。その「垂線の引き方」というのは、たぶん一通りしかなく、その意味では必然ともいえるからだ。しかし確かにそれ(垂線の引き方)は、ヘーゲルのいうとおり、もともとの三角形の概念には含まれてはいない。つまりヘーゲルのいう「学」というのは、概念の包含関係であり、ある概念の中により高次の概念が含まれていて、それが「必然的に」展開されるようなものしかあり得ないという感じなのだ。(そして最終的に得られるのが「絶対精神」というわけである。)なんとなくプロティノスの「流出」(エマナティオ)を思い出させるが、それは素人の勘違いかも知れない(プロティノスでは「流出」される方が高次なのだと思うが)。いずれにせよ、ヘーゲルの体系の中には、これだと「直感」の占める位置がなくなってしまうように見える。「補助線の引き方」というのは、直感であるから。同様に、直感によるものである「証明」も、ヘーゲルはくそみそにやっつけている。おもしろい。
 それからしても当然だが、ヘーゲルは「量」というものは「非本質的で、概念を欠いた関係」であると蔑視しているのがまたおもしろい。ヘーゲルは、「量」に内部構造のようなものがあるとは思ってもみなかったことだろう。けれども、自然数(整数でも有理数でもよい)は可付番的であり、離散的であるが、実数は連続的であり、両者の「濃度」は異なるのである*1。それから、これは哲学者がよくいうところに、数学はトートロジーであり、意味がないという発想があって、ヘーゲルもそれに陥っている(ウィトゲンシュタインもだったと思う)のだが、自分にはじつはこの主張がよくわからない。というか、わかっていないのは哲学者の方ではないかと思う。厳密に公理的な数学体系にあっても、それはトートロジーというようなものであろうか? それはあまりにも数学を知らないというべきであり、数学は公理の展開に加えて、様々な概念をその都度定義することにより、その豊かさを増やしていく学問である。現代数学の基礎は集合論であり、すべては集合論から出発していると見做してもまあよいと思うが、たんなる古典解析ですら、集合論と同じものではもちろんない。等々。勝手な落書きでした。(AM01:46)

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

精神現象学 上 (ちくま学芸文庫)

しかし、集合論から始まって壮大に構築された二十世紀以降の数学を知ったら、ヘーゲルはまたちがう感想をもったような気もするのだが…。

*1:なお、現代数学では実数のごとき「量」でも、厳密に集合を使って構成することが可能である。その意味で、量が「非本質的」であるというヘーゲルの非難はむしろ当たらないといえよう。