プラトン『テアイテトス』

日曜日。雨。
ビジネススクールみたいなところに入学して落ちこぼれる夢を見る。これはわかりやすいのだけれど、これと田舎をチャリで疾駆する夢が融合していたのが謎。川の中とかもチャリでガンガンいっていた。よくわからないな。

午前中と午後は二時間くらい、何もせずごろごろしていた。だいぶすっきりした気分。

okatake さんが昨年末にブログを閉じられたが、思った以上にさみしくなったな。もちろんこれまで楽しませてもらったし、ブログを書く書かないなど個人の自由だからこそブログはよいのだが、それでも本の読める信頼する先輩をひとり失った気分だ。まあこれからは著作を楽しみに待とう。

20190120165522
珈琲工房ひぐち北一色店。古典新訳文庫新刊の『テアイテトス』を読む。いつもどおりエーカゲンな読み方なのでさっぱりわからない。おそらく一〇代の頃に岩波文庫版を読んでいる筈だが、そのときはいっぱしわかった気になっていたのだろうと思う。というか、実際その頃の方が読めていた可能性が高く、既に衰えたものだ。ただ、わからないなりにおもしろくないことはないね。いま再び考えているのが、言葉のコノーテーションをピンで留めるようにして固定し、繋辞を使って議論を大伽藍のような構築物に仕立て上げていく西洋の手法についてで、もちろんその源流には古代ギリシアがある。そこにおいてプラトン、あるいはソクラテスはどういう位置づけになるかということだ。まあそんなで、とにかくおもしろくないことはない。若い人たちにもプラトンはお勧めしたいというか、本当は必読書みたいなものだと思うが、なかなかねえ。彼ら彼女らはじつにマジメなのだけれどねえ。

プラトン『テアイテトス』読了。上にも書いたように、ソクラテスが何をしたいのかさっぱりわからなかった。もっとも自分は、親切極まる訳注や、大部の訳者解説にまだ一切目を通していないので、訳者解説はあとで読んでみることにしよう。しかし、わたしの下らぬ読み方でもおもしろいところはあったので、バカバカしいと思われるかも知れないが、自分はソクラテスがめんどうな議論を散々したあとで、「…真実恐ろしいものでもあり、また不愉快なものでもあるのは、テアイテトス、『おしゃべり野郎』だろうね」(p.268)とか言い出すのがまったく愉快である。この「おしゃべり野郎」というのはじつにソクラテス自身のことであり、そのあとに「いや、なに、自分自身が愚かであり、真におしゃべり野郎であることに、わたしはつくづく嫌気がさしたものでね」(p.268)と続くのである。わたしもまた、自分が「おしゃべり野郎」であることにしばしばウンザリするといってもよい。しかし、テアイテトス君はまだ一〇代であるそうだが、じつに優秀でじつにいい子だなあ。どうもテアイテトス君は醜い容貌であったらしいが、ソクラテスが「かわいい坊やよ」とか愛情を示しているのはわからないでもない。残念ながらわたしはちがうが、ソクラテスは立派な男色家だったからね。とか、天下の古典に対し、じつに下らない読み方をしたものである。まあわたしなんてそんなものだ。

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

テアイテトス (光文社古典新訳文庫)

 
いま気になって「コノーテーション」という語を調べてみたが、自分は意味をたがえて使っていますね。むしろ「シニフィエ」とでも言い直すべきだな。無知でした。

どうでもいいのだが、小林秀雄の『本居宣長』って、単行本で 10万部以上売れたのだな。ちょっと信じがたいものがある。まだそんなに前のことではないのに、いまの小林秀雄の忘れられぶりはいったい何なのか。それを自業自得(?)だとよろこぶ人もたくさんいるのだろうな。吉本さんの全集が刊行されつづけているのは奇跡だし、ホントに最後まで続くのか自分は半信半疑である。おそらく、中沢さんの全集は出るまいな。

『テアイテトス』訳者解説読了。これだけで 130ページもあるが、わからん(笑)。訳者あとがきによると、本書は2004年のちくま学芸文庫版の大幅改訂版とあるので、たぶんそちらも読んでいる筈。全然覚えていない。いやあ、ホント俺って頭が悪いな。