瀧澤弘和『現代経済学』

曇。

NML で音楽を聴く。■モーツァルトメヌエット ニ長調 K.355 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。モーツァルトにこんな曲があったのか。ちょっと現代音楽みたいな感じだな。不思議な和声が使われている。■デュティユーの「メタボール」で、指揮はジャン=クロード・カザドシュ、リール国立管弦楽団NMLCD)。■ライヒの「六重奏曲」で、演奏はロンドン交響楽団パーカッション・アンサンブル(NMLCD)。ライヒはカッコいい。二十世紀の音楽家の中でも、ライヒはもちろん最重要人物のひとりであろう。その影響力の大きさは、例えばブーレーズなどとはたぶんに比較にもなるまい。クールだ。■ジャン・フランセ(1912-1997)のコール・アングレ四重奏曲で、コール・アングレはラヨシュ・レンチェス(NML)。フランス人っぽい名前である。二十世紀の作曲家にしては保守的な作風に感じるが、エスプリが利いていて洒落た曲。なかなかいいね。

全然知らなかったが、フランセって人はかなり有名なのだな。検索してみて CD がたくさん出ていることを知った。いやあ、知らないものだなあ。Wikipedia

J.C.バッハのピアノ・ソナタ ト長調 op.17-1 で、ピアノフォルテはハラルト・ホーレン(NML)。

J.C.バッハ:6つのピアノ・ソナタOp.17

J.C.バッハ:6つのピアノ・ソナタOp.17

スカルラッティソナタ K.171, K.172, K.173, K.174, K.175, K.129, K.176 で、ピアノはカルロ・グランテ(NMLCD)。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第二十三番 op.57 で、ピアノは野平一郎(NMLCD)。カッコよすぎて死亡。これが日本人ピアニストの「アパッショナータ」だ、ザマーミロって感じ。いや、野平一郎とか言っているのは自分だけな気がするが、そんなことはいいのだ。譬えると、ピアニスト・モーツァルトベートーヴェンを弾いたら、こんな感じになるのではないか、とかはまあテキトーですが、それにしてもすごかった。天才的。ちょっと若い頃のグルダベートーヴェンを思い出したが、グルダともちがうね。こんなピアニストが日本にいたのだなあ。すごいなあ。


カルコス。いつもながら、「群像」の中沢さんの連載を立ち読み。今回は特に数学と物理学の話で、数式自体はわからないことはないが、レンマ学との関係が自分にはむずかしすぎる。結局、自分は理系といっても、あんまり優秀でなかったなと思う。まだまだ勉強することは多い。それから、やはり鈴木大拙はよくやったのだな、とか。県図書館に全集がないかな。(追記。選集も全集もあるな。ちょっと全集は大部すぎるかな。)

ミスタードーナツ イオンモール各務原店。ホット・スイーツパイ りんごとカスタード+ブレンドコーヒー。瀧澤弘和を読む。新書の経済学本。なかなかおもしろい。


瀧澤弘和『現代経済学』読了。自分にすべてわかったわけではないが、なかなかおもしろい本だった。中身については書かない。自分は経済学は現代における「宗教」になっていると思っているが、そのことに関して多くの示唆を与えられた。「宗教」というのは必ずしも悪い意味ではなく、「ドグマ」といっても「偏見」といってもよいが(これらもあまりいい意味で使われませんね笑)、人間は「ドグマ」から決して逃れられないものであり、その「ドグマ」は多くは時代が決定する。例えばわたくしに染み付いたドグマは物理学であり、それはいまでも変わることがない。ネットを見ていると、若い人たちは経済学についてたとえ専門書を読んでいなくても、自然に経済学の発想でものごとを考えるようになっている。それは驚くほどそうで、おそらくシニア世代がそのことを理解するのは簡単ではないだろう。そして、いまや「管理」と経済学が強く結びつきつつあり、これからの世界は徹底して経済学的に管理・運営されることになるだろう。いや、それは既に実現しているというのが正しい。本書でおもしろかったエピソードに、「制度の経済学」がコーポレート・ガバナンスという考え方を生み、それが現実に強い影響力をもって、アメリカの恐るべき格差社会を生んだというものがある。かように現代経済学は社会に決定的ともいえる影響力をもつようになり、さらには人間のあり方そのものを変えつつあることは明らかだろう。いまの日本における「リフレ派」の存在も、かかる文脈で考えることが可能である。実際、「リフレ派」の経済学者たちは、経済学が人の生き死にのあり方を決定するということをはっきりという人たちなのだ。
 それにしても、いま「リフレ派」という言葉を出したが、現代経済学はまったく一枚板ではない。様々な領域を含む複雑な「総合的」学になってきている。いずれにせよ、経済学の知見が我々をソフトに、見えないように管理することに使われていくのは確実だ(やはり、東さんの「環境管理型権力」という概念はいまでも重要である)。それはもしかすると、経済学のもともと予期しないことであったのかも知れないが、現実はどうであろうか?

それからこれは本書の内容とは直接は関係がないが、本書で著者が「自由意志の非存在」を自明視しているのがおもしろかった。いまやそれは現代の多くの学者(領域を問わない)の常識になっているようであるが、この脳科学からきた知見は実際には何を意味しているのだろうか? 自分にはそこのところがよくわからないのである。「自由意志の非存在」というのは、必ずしも「主体の否定」に繋がらないものなのだろうか? 自由意志が存在せずに、主体が存在するということがあるのか? 自分がいまだに納得できないことに、仮に主体が存在しない場合、「責任」という概念が否定されるのではないかと必然的に思われるのであるが、誰もそのことを問題にしないのである。一口に自由意志の非存在といっても、両極端の考え方があると思う。ひとつは完全な決定論、もうひとつはすべては完全な偶然であるというものだ。いずれにせよ、その帰結として主体、さらには責任というものが否定される。例を挙げてみよう。わたしがある女性に性的暴行を加え、さらには彼女を殺害して逮捕されたとする。さて、わたしの行為が予め既に完全に決定されていたとすれば、わたしの意志の介在する余地はない。ゆえにわたしは主体ではなく、責任も存在せず、わたしの罪を問うことは論理的矛盾である。あるいは、わたしの行為はすべて完全な偶然だったとする。その場合もわたしは主体ではなく、同様にわたしの罪を問うことはできない。――このような問題が実際に起きうると思う。しかし、現実にはそのような主張はなされていないし、主体も否定されていない。ゆえに、自由意志の非存在は主体の否定に繋がっていないことになる。しかし、これを可能にするロジックは存在するのか? 自分にはそこがよくわからないのである。

なお、付記しておくが、自分は「自由意志の非存在」がまちがっていると言っているのではない。というか、そこらあたりのことは自分にはよくわからない。ただ、「主体」なんてものがエーカゲンなものであることは確実である。それはそれで、一種のフィクションではあろう。しかし、そのようなフィクションは必要とされているものなのである。

もうひとつ、「環境管理型権力」というものにじつは「主体」はない。例えば安倍首相が管理すると思っている人も多いかも知れないが、じつは安倍首相もみずから「管理」されているというべきである。我々はみずからを進んで「管理し、管理させる」。つまり、「管理」が現代における超越的審級になっている。古くさい言い方でいえば、「超自我」なんて言ってもいいのだが。そう、敢ていえば「神」と言ったっていい。我々にとって「管理は神」なのである。