ジークムント・フロイト『メタサイコロジー論』 / 『吉本隆明全集 13』

曇。のち雨。
早起き。

NML で音楽を聴く。■バッハの前奏曲ハ短調 BWV999、フーガ ト短調 BWV1000、前奏曲、フーガとアレグロ 変ホ長調 BWV998で、バロックリュートは今村泰典(NMLCD)。落ち着くな。■ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第三十番 op.109 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。これが聴かれないとすれば何なのかと思うが、まあ仕方がない。自分はまだまだだとも思う。■ルトスワフスキの「牧歌」、「若い人たちのための3つの小品」、「ロクサーヌの口づけ」、「冬のワルツ」で、ピアノはジョルジオ・コウクル(NMLCD)。■コルンゴルトのヴァイオリン・ソナタ ニ長調 op.6 で、ヴァイオリンはソーニャ・ファン・ベーク、ピアノはアンドレアス・フレーリヒ(NML)。コルンゴルトには自分には未知の領域があっておもしろい。これは38分あまりの、ヴァイオリン・ソナタとしては長い曲で、聴いていて少々しんどかったのも事実である。何かふわっとしたところがあるのが不思議。コルンゴルトはまだまだ聴きたい。しかし、アマゾンの表記で演奏者 UNKNOWN って何ですか。あいかわらずいいかげんだなあ。

■レオ・ブローウェルの「永劫の螺旋」、ベリオの「セクエンツァ XI」、アナ・トレスの「ミル・イ・ウナ・カラス」、横尾幸弘の「さくら」で、ギターはエドゥアルド・フェルナンデス(NMLCD)。

昼前、風が強くなってきた。雨戸を閉める。台風はまだ海上みたいだが。
こんなときに冷蔵庫が壊れたらしい。メーカーに連絡はしたが、もう寿命かもしれない。

なお、ウチの冷蔵庫はサンヨー製であるが、サンヨーは2011年にパナソニックに子会社化され、冷蔵庫事業はハイアール(中国の企業)に売却されたのだって。じゃあ、修理にはハイアールの人が来るのかな? 凋落する日本家電を象徴する話だなあ。

雨はそれほどでもないが、風がすごい。二階にいると恐怖感を覚える。この前の台風よりさらにすごいな。おちおち何もしていられない。(PM02:29)

三時から四時の間がいちばんひどかった。いまは吹き返しになっていて、だいぶ弱まってきている。それでもびゅーびゅーいっているけれど。(PM04:45)


ジークムント・フロイト『メタサイコロジー論』読了。十川幸司訳。現在精神分析学は科学とは認められておらず、現在の知識人で否定的文脈以外でフロイトの名を記す者は稀であるとも思われるが、それにもかかわらずフロイトの「深さ」というか「闇」というかは明らかである。やはり、フロイトが取り扱っていた領域がきわめて重要であることは、現在においても変わらないと自分は思った。まあしかし、自分にはまだまだ(というか一生)それを読み解く力がないことも事実であろうが。ゆえに、本書の内容については何も述べることができない。
 それにしても、現在にあっては意識的に明確にしていける領域のみを極限まで精緻化していこうという傾向にあり、一方で「無意識」の存在は口にもされない。わたくしが個人的に知りたいのはこれからの我々の無意識のあり方である。それがいちばん特徴的に現れているのは、ネット空間の、特にツイッターなどであろう。自分は個人的に、いまツイッターを見ていると、個人個人の無意識の運動を象徴する事象を目の当たりにして、言葉を失うような感じがある。とても自分などには触れることもできない、おそろしいものを背後に感じているが、何ともしようがない。なるたけそのあたりを明確化したい気がするのであるが。

しかし、「意識」など「無意識」に比べたら大したことなどないのだ。そうではあるまいか。


いまやポストモダン哲学はバカげたものとして嘲弄されるのがデフォルトになったが、わたしはそれはつまらないという気がする。例えば「資本の運動が意味(=方向、サンス)を整流化する」ということはポモでいわれたことであるが、まさしくそのことに我々はいまや無自覚になってしまった。我々は現在、資本の運動のことばかり考えている。それが我々の主要な関心事になり、一生はそのために生きられるようになった。まあ、それが当り前になってしまったのだから、イヤも応もない。どうしようもない。いや、どうかしようという気もないというのが、正確なところであろう。資本の運動と快楽の実現。我々の関心事はそれである。

うんこ。

まあ自分を特権視するのもな。聞いたふうなことを言うのはやめよう。

図書館から借りてきた、『吉本隆明全集 13』読了。ただし、「島尾敏雄」は読んでいない。島尾をほとんど読んでいないのに読むのは無意味だと思えたので。あとは目を通した。それにしても読み終えるのにどれくらいかかったものか。いま、本を読んでも読み続けるのがつらい。何故だか知らないが吉本さんは数少ない例外で、それだけで読んでいるので、別に吉本隆明は無謬であるとか、まったく思っているわけではない。浅田さんとはちがう意味で、結局自分には吉本さんはわからないのかもしれないが、そんなことはいいのである。いま自分は魂を殺さないようにするのが精一杯で、本を読んでも栄養になるものが少なくて、『吉本隆明全集』は「滋養強壮剤」みたいなもので碌な読み方ではない。吉本さんの崇拝者というわけではないので、ただただ何となく懐かしいひとでその気持ちは大変に強い。僕は身の程知らずにも鶴見さんなどは苦手で、ただ鶴見さんは己を悪人と見做していたそうであるが、そのあたりの自己認識はさすがであると思える。吉本さんはどれほどむずかしいことを、徹底的に深く考えるひとであっても、ふつうのひとであった(立派なふつうの父親でもあった)。中沢さんの読みでは、吉本さんには「頭がよい」ということを病気の一種として捉えているところがあるそうだが、そういうところが稀なひとだと思っている。まあ、自分などはその程度の読み方だ。おもしろいとか、つまらないとか、芸もなく言っているだけである。

吉本隆明全集〈13〉 1972-1976

吉本隆明全集〈13〉 1972-1976

小林秀雄は既に忘れられたが、吉本さんはどうなのだろうな。小林秀雄も吉本さんも、百年後くらいに誰かが発掘するとよいのだが。

いっておきますけれど、別にむずかしい本を読んでいるばかりではさらさらありませんからね。下らないエロとかネタとかもネットで見てます。ブログも読んでます。

NML で音楽を聴く。■バッハのフランス組曲第四番 BWV815 で、ピアノは岡田美和(NML)。この曲が聴きたくなったので。岡田美和というピアニストがどうなのかまったく知らないが、これで充分である(すごく上から目線っぽいが、そんなつもりは毛頭ない)。リヒテルペライアでなくともこれでよいのだ。ちなみに、この曲はクラシック音楽を聴き始めてもっとも早い頃に好きになった曲のひとつである。同じフランス組曲では最高傑作は第五番だと思うけれども、いまでもこの曲は自分には特別だ。

岡田美和 バッハフランス組曲 全曲

岡田美和 バッハフランス組曲 全曲

細川俊夫の「冥想 - 3月11日の津波の犠牲者に捧げる」、「嵐のあとに」で、指揮は準・メルクル、バスク国立管弦楽団NML)。
Hosokawa: Orchestral Works Vol

Hosokawa: Orchestral Works Vol