江藤淳『批評と私』

曇。
行き詰まっている。中沢さんを読んでチェックしてみても方法論的には誤っていないようなので、解決するのは時間しかない。焦っても仕方がないようだ。

NML で音楽を聴く。■パーセルの三声のソナタ第五番、第六番、第七番、第八番、第九番、パヴァーヌ イ短調で、演奏はパーセル・クァルテット(NMLCD)。何という澄み切った美しさであろうか。■モーツァルトファゴット協奏曲 K.191 で、ファゴットはフランク・モレッリ、オルフェウス室内管弦楽団NMLCD)。■ベートーヴェン弦楽四重奏曲第九番 op.59-3 で、演奏は東京Q(NMLCD)。終楽章には思わず感動してしまった。じつにカッコいいな。ひとつに繋がった感じ。■シューマンのピアノ・ソナタ第二番 op.22 で、ピアノは内田光子NMLCD)。うーん、内田光子は自分にはわからないなあ。というか、内田の演奏の八割はわからない。内田光子は一流の聴き手がこぞって賞賛する「深い」ピアニストであるから、自分はたぶんその深さがわからないのである。内田光子を聴くにはまだまだ嘴が黄色すぎるのだ。この演奏も、理性的に評するなら、各楽章の性格をあざやかに弾き分けた、見事な演奏というしかあるまい。なかなかむずかしいものであるな。ちなみにこの曲の自分の準拠枠はリヒテルのスタジオ録音である。もう中身は忘れてしまったが、アルゲリッチの録音もあった筈だ。またそのうちに聴いてみよう。

NML で音楽を聴く。■シューベルト即興曲集 op.90 で、ピアノはヴァルター・ギーゼキングNML)。ギーゼキングは不思議なピアニストだな。いわゆるザハリッヒな音楽家の典型で、まるで感情がないかのような、機械のように正確なピアニズムである。じつのところ、ギーゼキングという人は何が楽しくてピアノを弾いていたのであろうか。しかし、その音楽のすばらしさというのは、ちょっとわけがわからないくらいである。じつはこの演奏の前にいろいろなピアニストの演奏でこの曲を聴き始めたのだが、どれも満足できなくて途中で止めてしまった。ギーゼキングの射程は、どこまであるかまったくわからない。なるほど、この曲ってこんな風だったのかと驚かされる。このあたりが、音楽というもののむずかしさなのだなと思う。感情移入すればよいというものでもないのだ。

Various: 1950s Solo Studio Rec

Various: 1950s Solo Studio Rec

ギーゼキングは指揮者はカラヤンを気に入っていたそうである。これはおもしろい。カラヤンという人もいろいろ言われるひとだが、めったに正確に理解されていない指揮者だからだ。カラヤンというのはヨーロッパの最高級ブランドと捉えるのが正しく、ひとつの頂点であり、60年代のベルリン・フィルとの録音などは、我々がどれだけ努力しても到達できるようなものではない。あらゆる好条件が重なり合わないと、このような達成は得られないからだ。そういえば内田光子カラヤンが大嫌いだそうで、それもまたおもしろい。なるほどと思わせられる。カルロス・クライバーが畏敬していたのもカラヤンだったな。

誰かが書いていたが日本の音楽評論家という人たちにはカラヤンがまったく理解できなくて、そこらあたりが後進国の限界だった。言っておくが自分は別にカラヤンのすべてがよいとか、そんな権威主義はどうでもよくて、それは全否定と同じ貧しさである。結局、田舎者の「精神主義」にはヨーロッパの最高級品というのがわからなかっただけの話である。いまでも事情はさほど変っていないが。人気 No.1 がブルックナーだとか、別にいいのだけれどちょっと勘弁してほしいものがある。いや、いいのですよ、それはね。確かにブルックナー、深いです。

いや、こういうエラソーなことを書くのが既に自分の低能たる証拠だな。低能で思い出すが、つまりは低能先生は id:hagex 氏を殺害してしまったわけである。もちろんそれはまったく肯定できるようなことではないのだが、それとは別に、「低能先生」ってのはいかにもヒドい呼称だなと思わずにはいられないところがある。どうしてこのような呼称が通用していたのか、自分は知らない。これを他人が名付けたのなら、それはあまりにもひどいことで、いくら低能先生がキチガイであったにせよ、それはキチガイに対する悪質なイジメではないのだろうか。たぶんそんなひどいことはなかなかできるものではないと信じたいので、仮に低能先生自身が選んだ呼称であるとして、なにゆえにそのようなヒドい呼称を選んだのだろう。選ばずにはいられなかったのかも知れない。自分は何となくその感覚がわかるようにも錯覚するが、それにしてもそのような呼称を自分で採択できる気もしない。確かなのは、インターネットはその「低能」とは正反対のおりこうたちで満ち溢れているということである。わたしはどうも、そういうおりこうたちが苦手だ。低能先生は確かに最低だが、id:hagex 氏はネット民の言うとおりのそんなにえらい人だったのだろうか。さて、自分は何も知らない。これもテキトーに書いてみただけのことである。

図書館から借りてきた、江藤淳『批評と私』読了。先日何ということもなく小林秀雄江藤淳の名前に遭遇して、そしてたまたま図書館で江藤淳を見つけたので借りてきた。江藤淳は果たして既に読むに値しないのだろうかという思いがあったことは否めない。そうしたら、本書の半分はたまたま小林秀雄の死去に際しての文章であった。正直言って涙無くしては読めなかったが、まあそれについては書かない。とにかく、江藤淳こそがある種の「文学」(江藤ならこのような括弧つきの「文学」にしないだろうが)そのものであることを再確認した。そしてその圧倒的な才能も。けれども、江藤淳はいかにも真面目すぎるし、パセティックすぎるように自分には思えて、それが読んでいてつらい。江藤淳はそういう言い方はめったにしないが、つまりは「本物の文学」というものを信じ、というよりはそれが見えた人である。その意味では、小林秀雄の文学的血脈を継いでいる人ともいえるだろう。そして、最終的に「文学の死」を見届け、自裁した人でもあった。もちろん、現在からしたら、ほとんど滑稽であるかもしれない。自分も、「本物の文学」とか「文学の死」という言い方が気に喰わない人が多数いることは知っている。まあ、ライトノベルや SF が文学であってもよいのかもしれない。本書を読んで、江藤という人が、文章というものがたんに記号的操作に還元されるものではなく、独自の生命力と美をもっていることを知っている人であったことに気付かされた。その点でも、また小林秀雄と同じである。私などは典型的な現代人で、記号をこねくり回しただけの機能的散文の中で日々生きていて、こういう生きた文章を読むと本当に恥じ入りたくなる。堕落したものである。
 それから、江藤はよく政治的な文学者のように見做されているが、これもまた正しくないことがはっきりした。江藤の脳裏にあるのはただ文学のことである。江藤が政治的な(ように見える)文章を書くのは(例えば戦後の言語空間と GHQ の関係について)、それが文学と直結している場合に限られるのだ。その意味で、自分のようなパヨクが江藤を読んでも、何もおかしいことはないのである。これもまた小林秀雄の場合と同様である。
 もう一度、吉本さんと江藤淳の対談本を読んでみたくなってきた。こんな自分でも、生きた血の通った文章に接したくなるときがあるのだ。それにしても、何という古くさい人間であろうか、自分は。

批評と私

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