若松英輔『小林秀雄 美しい花』

晴。

NML で音楽を聴く。■ハイドンのピアノ・ソナタ嬰ハ短調 Hob.XVI:36 で、ピアノは園田高弘NMLCD)。■モーツァルト弦楽四重奏曲第二十番 K.499 で、演奏はウィーン・ムジークフェラインQ(NML)。

季節がよくて寝てばかりいる。グーグー。

診察があったので一週間ぶりに病院。副作用は峠を越えたとのこと。それにしても、日本の医療制度はなかなかのものですな。貧乏人が大きな病気になってもちゃんとやっていけることがわかった。こういうことではさすがに日本の制度の悪口はいえないですね。家族でどれほどの恩恵を被っているかわからない。だから、お金がなくて病気になっても、早合点してはいけませんよ。よく調べれば、たいていは大丈夫になっている筈。
今日は会計が混んでいたので、時間待ちに新しくオープンした病院内カフェに行ってみる。まあたぶんほとんどが「業務用○○」ってやつだと思うけれど、なかなかおしゃれな雰囲気でしかも安かった。

若松英輔小林秀雄論、半分強読む。おもしろいし、若松の言っていることはよくわかるが、しかし彼が構築しようとする領域が、自分の中で崩壊しているのを感じる。書かれていることの意味はよくわかるけれど、真に意味作用しない。だから、自分にはほとんど無意味であるのを感じる。これはもちろん、若松が悪いのではないだろう。しかし、これでは自分の中で小林秀雄が再び立ち上がってくることはないかも知れないと予感する。

若松英輔が真面目かつ真摯なのは疑いない。才能も豊かだ。皆さんは読まれるとよいと思う。おそらくは自分がニセモノなのだ。(PM05:54)


図書館から借りてきた、若松英輔小林秀雄 美しい花』読了。単行本で600ページを超える大著である。やはりよい本だ。力作であり、これまで書かれてきた無数の小林秀雄論の中でもおそらく傑出した存在のひとつになるだろう。けれども、途中から自分は極めて個人的な読み方をしていた。小林秀雄は生涯を「ホンモノ」の探求に捧げたが、それがこのわたくしのニセモノたることを照射し、あぶり出したわけである。極めて個人的な話で、どうでもいいですね。しかしまあブログは「チラシの裏」であるから、書いたっていいでしょう。自分は途中から、「このわたくしのニセモノぶりは何なのか」と思い続けていた。まあ、ふだんはどうでもいいことなのだが、こういう優れた本を読むと痛感させられるのである。若松英輔は自分と同い年であるから、なおさらである気がする。ニセモノといってもいいし、(精神的な)貧しさといってもいい。本書の主題のひとつは、言葉はたんなる言葉だけではない、それは命あるいは魂につながっているのだ、ということもできるだろうが、それは確かに真理であり、小林の強調したところでもある。自分が極度に苦しくなるのもそこだ。いまは、言葉がたんなる記号と化し、小林秀雄らが心血を注いだ「文章」というものが、取り換えの利く機能的散文でしかなくなっている時代である。自分の生息している場所は、まさにそこだ。それゆえに、我々の命も魂も、限りなく薄味になって消滅しかかっている。これがよくわからないという(幸福な)方は、ちょっとツイッターや「はてブ」(はてなブックマーク)でも覗いてみたらよろしい。わたくしの精神は砂漠の中にいる。一切がシミュラークルである世界に、ついに我々は到達したのだ。若松英輔は、そのような世界に触れてはいない。ゆえに、古典的な世界に住む、幸福で豊かな精神なのである。まことにうらやましいとでもいう他ない。そして、これほど優れた本も、おそらく状況を大して変えないであろうことはわかっている。それでも若松英輔はこの道をゆくのを已めまい。すばらしいことである。

小林秀雄 美しい花

小林秀雄 美しい花

 
シミュラークルの世界、あるいは「深さ」の消失…。ポストモダニズムによって既に手垢に塗れた概念になってしまったが、やはりそれは正しかったという他ない。ゆえに、かつてはバカにされ気味だったボードリヤールが、いまや予言者として評価されている。『表層批評宣言』などは、その時流に蓮實重彦が巧みかつオシャレに乗ってみせた遊びであった。いまはもはや、世界にはフェイクしかないし、そのことがどんな間抜けにもわかるようになっている(トランプ大統領の出現を思え。あれはたまたまの現象なのではない)。そしてそれをインターネットが最終的に強化・加速する。この螺旋から逃れることは誰にもできない。可能性が見えるのはみずからを砂漠化させることで、そこにある残骸から新しい「精神のインフラストラクチャ」を構築すること、それしかない。それには、何世代かかるかもわからないし、果たして成功するのかもわからない。たぶん、成功しないだろう。