江藤淳『リアリズムの源流』

雨。強い。
夕方近くになるまでごろごろしていた。特に何かをする気がない。

シェーンベルクのピアノ協奏曲 op.42 で、ピアノは内田光子、指揮はピエール・ブーレーズ。この曲はシェーンベルクの中では聴きやすいもので、ブーレーズなんかは確かかなり辛辣なことを言っていたのではないか(ちょっとうろ覚え)。しかし、そんなに貶すことはないんじゃないかと思う。別にポピュラー曲でもいいじゃん。自分は結構よく聴く。内田光子ブーレーズのこの曲の決定盤ともいえる演奏で、じつは CD をもっているのでそちらを聴けばよいのだが、わざわざ探すのが面倒なので検索一発で聴いた。うん、いいね。ポリーニアバドでもいいと思う。しかしこの曲、思ったより You Tube に上がってなかった。あんまり選択肢がないような。

ベートーヴェンのいわゆる「エロイカ変奏曲」op.35 で、ピアノはアルフレッド・ブレンデル。何だかタッチがあまりブレンデルっぽくないという印象。重い。動画で音が悪いからかな。

時々飲んでいる。
夜、仕事。
図書館から借りてきた、江藤淳『リアリズムの源流』読了。まあ、すごくおもしろかったことはおもしろかったのだが…。ひとつわかったことがある。現代において、いやもう現代においてそういうことが言われることはないのかも知れないが、とにかく「文学は死んだ」とか「文学は決して死なない」とか、まあ何でもいいが、その「文学」とは、江藤淳のことなのである。それははっきりとわかった。それにしても、何という文学的才能。それは批評という形式を採っているが、これこそが文学なのだ。そして、しょうもないことばかり書くが、自分はその江藤淳の文学に対する全面的な傾倒(?)が、次第に気持ち悪く感じられるようになってきたと白状する。気持ち悪いというのは正確ではないかも知れないが、何ともいいようがない。例えば、江藤淳の有名な「"フォニイ"考」は、本書に収録されていて、自分は初めて全文を読んだのだが、辻邦生加賀乙彦、小川国夫、丸谷才一は「フォニイ」であると一刀両断している、何ともすさまじいものである。「いかさまでもっともらしい人で、ごまかしで、にせもの」などと言っている間に舌がもつれてしまうから、正確な形容である「フォニイ」で済ます、その一言で足りるとはっきり述べている。僕も(自分などがいうのは滑稽であると承知だが、文脈上仕方がない)江藤淳の言っていることはそのとおりというしかないのだが、そんなことはどうでもよくないか。辻邦生加賀乙彦、小川国夫、丸谷才一は下らないし、マチネ・ポエティクも下らないが、そんなのは放っておけばいいのにと、まあとにかく自分などは思ってしまうけれど、どうしてそれを江藤淳は言わずにおれないのか。いや、それは言うべきであると江藤淳は確信していたにちがいない。自分でもつまらぬことをいうとは思うが、どうしてそこまで文学に己の全存在を賭けねばならぬのか。それが何かたまらない気がする。
 江藤淳は、自分には「大人」に感じられる。自分は髪に既に白いものが混じりだしているおっさんではあるが、たぶん同い年のとき(いや、二〇代ですら)の江藤淳は比較にならない大人だ。しかしそんな大人の江藤淳が、伊東静雄の詩について書いているのを読むと、ちょっと愕然とする。というか、ギョッとするというか。ここでの江藤淳は何か虚無に捉えられているような感じで、目を背けたくなる。自分は何だか、とんでもない勘違いをしているのかも知れないが。
リアリズムの源流

リアリズムの源流

しかし、自分はさらに江藤淳は読むだろう。読まないでいられない気がする。