堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』/青木健編『田村隆一エッセンス』

晴。
寝過ぎ。本も読まないで 11時間くらい寝た。こうなると睡眠らしい睡眠はやはり 8時間くらいで、あとは夢を意識しながら(?)の眠りとなる。いいこととはまったく思わないのだが、仕方のないようなところもある。呆れて下さい。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十三番 op.130+大フーガで、演奏はアメリカンSQ。ここからベートーヴェン弦楽四重奏曲は難物続きであり、聴くのが少しためらわれるくらいである。この曲では特に大フーガが大変。僕は大フーガはまだわかった気がしないのであり、特に主題の分析を(自分ではできないので)誰かしてくれないかなと思う。ベートーヴェンモーツァルトとちがって聴衆にむずかしかろうが一切手加減しないので、それはそれでこちらはどうしようかという感じ。正直、演奏のよさとか判断できないのだが、ここで聴衆が熱い拍手を送っているのには共感した。なお、この演奏では、演奏方法としてはわかれるところで、大フーガを最後にもってくるそれになっている。

ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」で、指揮は Thomas Søndergård。管弦楽版かピアノ版かいずれを採るか迷うところだが、いまの気分は管弦楽版だった。しかし、最初からオーケストラのために書かれたことしか思えないのですが。指揮者はまるで知らない人だが、チャーミングでよく勉強してあって、気持ちのよい演奏だった。僕にはこれで充分。

Flickr で 5万人もフォロワーがいる外国人(コロンビアの人らしい)が、昨日の日記の写真にスターをつけてくれた。僕の Flickr は誰も見ないのだけれど、半年とか一年に一度くらい、いつもちがった外国人がぽつんとスターをつけてくれることがある。そんなにアジアの片隅はいまでもエキゾチックなのか。大したことではないのだが、ネットって不思議だと思ってしまう。
と思っていま見たら消してあった。やっぱり大したことないと思ったんだな(笑)

ハイドンのピアノ・ソナタ第六十番 Hob.XVI-50 で、ピアノはインガ・フィオリア。なかなかおもしろい演奏で、よかったことはよかった。ただ気になるのはこれ、有り体に言って「グレン・グールドの録音を意識しているの?」ということである。僕は別にここで評論とか評価とかしているわけではないのでどうでもいいといえばどうでもいいのだが、どうもグールドの演奏に似ているというか、はっきり言ってコピーのようにしか聴こえない。下衆の勘繰りだったらお許し頂きたいところである。これが真正真実に自分の心から流露したものであればよい。そうであって欲しいものである。
ただここで「真正真実に自分の心から流露した」などと書いたけれど、厳密な意味でそんなことがあり得るのかといわれたら、確かにそうなのだよね。色んな流れの中で自分の演奏スタイルを作り上げていくのが当然で、完全にオリジナルなものなんてある筈がない。一方で、上の演奏はあまりにも…という感じがするのも確かなのだ。

ル・モンドの記事から「共謀罪」について - 内田樹の研究室
僕は悲観主義者ではたぶんないと思っているが、日本の将来に明るいものをみない。新しい世代にも期待しない(というか、自分の世代も含めてそれ以降が信用できない)。ということはもう充分書いてきたので書かないことにしたが、ついまた書いてしまった。ちなみに、国会前でデモをしている人たちはいるが、マスコミは無視、知識人たちは批判的である。あーあ。
「テロが起きたらどーすんだ」という人がいるけれど、テロが起きようが起きまいが、「共謀罪」法案とは何の関係もあるまい。いやまあ政治なんてのは結果がすべてだから、この法案がテロ(いまエロって打っちゃった)を阻止するのに役立つことがあり得ないとはいえないのだけれどね。いずれにせよ、これについてはもー知らん。好きにさかしらなことを言っていればよいのだ。
国家の権能の及ぶところは大きくなるばかりだ。これは二十世紀の全体主義とはちがう。まだ名前のついていない、何か新しいものだ。経済のグローバル化と国家機能の強化は矛盾しそうであるのに、それが同時に起きている。これはいったいどうなるのだろう。僕はネグリ&ハートのようにマルチチュードに期待というのは無理な気がする。だって、この現象はマルチチュードが後押ししているように見えるから。集団自滅? それともユートピアの前の産みの苦しみ? たんなる一時的なゆらぎ? まあ、自分の能力ではよくわからない。
エロサイトでも見るか。

堀江敏幸『バン・マリーへの手紙』読了。

図書館から借りてきた、青木健編『田村隆一エッセンス』読了。田村隆一の詩と散文のアンソロジーである。詩の部分を読み終えて思った。なんだ、田村隆一ノーベル文学賞を貰っていないのか? 岩波文庫にも入っていないのか? 強烈な体験だった。これぞ現代詩。池澤夏樹さんは「現代詩はひとりぼっちで部屋の中で黙々と読んでいるという感じで、クラい」というようなことを仰ったが、あらためて余計なお世話だと思った。確かにクラい。しかしこれは、自分に叩きつけるような言葉たちだ。「わたしの屍体に手を触れるな/おまえたちの手は/『死』に触れることができない/わたしの屍体は/群衆のなかにまじえて/雨にうたせよ」まさしく自分もそういいたい気がする。もちろん田村隆一の屍体と自分の屍体ではまったく意味がことなり、自分は田村の詩を勝手に読んでいるだけだが、そもそも詩を読むなんてそれでいけないのか。自分も言おう。「わたしの屍体に手を触れるな」と。是非国語の教科書に田村隆一の詩をのっけて欲しいものである。
 それに比べれば、散文はおだやかなものだ。これが詩人の表の顔であり、丸谷才一氏が「名文」と宣っておかしくない、まことに上手い文章である。田村隆一は楽しいおじさんだと思っている人もいるのではないか。まことに軽妙で、おしゃれなものだ。しかし、ここから田村隆一の詩へ降りていく道はあまりないようにも思われる。もしかすると自分はまったくの思い違いをしているのかも知れないが、まあこちらは何も知らないので仕方がない。あくまでも自分にとっては、田村隆一はまず第一に詩人なのだ。それ以外には考えられない。
田村隆一エッセンス

田村隆一エッセンス

しかしいまや、本屋で田村隆一を買うことはきわめてむずかしい。文庫版で全詩集を出してもおかしくない大詩人だと思うのだが。僕は何かまちがってますかね?