冨田恭彦『カント入門講義』

曇。
早く寝てしまったので真夜中に起きる。読書。

バッハの管弦楽組曲第三番 BWV1068 で、指揮はトン・コープマン。オリジナル楽器による現代的な演奏であるが、どうも現代オーケストラによる昔の厚化粧な悪趣味ともいわれそうな演奏がなつかしい気もする。

バッハのピアノ協奏曲第一番 BWV1052 で、ピアノは牛窪レイ。これ、悪くないですよ。ピアニストについては何も知らないが、将来を嘱望される若き日本人ピアニストのようである。このカッコいい曲を、なかなかカッコよく弾いている。ホールの残響はもっとあった方が好みなのだが、このデッドな響きだと粗がよくわかってしまう筈なので、それでこれは大したものだと思う。ピアノはカワイかな? それからようやく気づいたのだが、この曲ってオケは弦楽のみなのですね。いままで気にしたこともなかった。
キーシンのピアノでシューベルトの「さすらい人」幻想曲を聴いていたのだが(参照)、我慢できなくなって中断。パワー系のピアニストであるキーシンとは相性のよい曲だと思ったのだが、完全なるミスマッチとしか聴こえなかった。シューベルトをまるでショパンのように弾いていて、音楽的なのかも知れないが、自分には意味不明。

シベリウス弦楽四重奏曲ニ短調「内なる声」op.56 で、演奏はコペンハーゲンSQ。シベリウスの音楽は自分にはかなり難解である。でも惹かれる。
午前中しばらく寝る。

昼から県営プール。何だか一日中寝ていたい気分なのだが、面倒だけれども出かけたところ、すごく身体が軽かった。いつもの一二割増しくらいのペースで泳いでも全然疲れない。あとからドッと疲れてくるのかも知れないが、楽に泳いで終った。まったく何のかよくわからない。
ウチの庭に夏みかんの花のいい匂いが立ち込めている。ナチュラルな薄い匂い。

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まったくこんなことばかりしていますね。本でも読めよといわれそう。
冨田恭彦『カント入門講義』読了。副題「超越論的観念論のロジック」。これは刺激的な本だった。カントの『純粋理性批判』の中核を、きわめてわかりやすく整理したものである。自分のことで恐縮だが、僕はカントが好きで、二〇代のときから時々カントを読み返してきた。もちろん自分には(いまでも)難解であるが、カントという人はちょっとちがうと思い続けてきたものである。で、むずかしいなりに読み解いてきたところが、じつに明快に整理されてやさしく説かれているのを読むと、正直言ってガックリくるようなところもあった。まったく俗物であるが、それくらい本書はわかりやすく、しかもまったくレヴェルを落としていない本だと思う。さらに、まだ自分のよくわかっていなかったところも少なからずあり、頭のよい人はちがうなと思わされた。若い人が本書から学べば、『純粋理性批判』の最重要部分は最速でマスターできるということになろうか。
 なお、これほどブリリアントに『純粋理性批判』をまとめておきながら、著者の意見が述べられてある最終章は、自分には半分寝言にしか思えなかったのは奇怪である。たぶん自分がよくわかっていないのかも知れないが、著者はカントのカテゴリー(あるいは本書で言う「純粋知性概念」)が一定不変であると思えないというのだ…。これは自分にはまったく意外な意見であり、ではカントのカテゴリーがどう変容するというのか。また、「物自体」がカントでは完全に認識不可能であるというのを著者が否定するというのも、まったく理解することができない。たとえば著者は物理学は「物自体」の解明であるというようなことを述べているが、自分の考えでは物理学がやっているのは、いわば「数学を使った表象の再編成」のようなものであり、どれほど物理学が発展しても「物自体」が知覚不可能であることに変わりはないのである。そんなことは自明ではあるまいか?
 まあ自分の意見などはよいので、これからもカントが読まれ続けてほしいものである。本書はそのための捷径になるであろう。本書を読まれたら、是非カントのテクストに挑戦してもらいたいものだ。自分もまたカントが読みたくなった。

中沢さんではないが、僕は人間の「心」の作動メカニズムは、例えば縄文時代の頃(いやもっとその前)から何ひとつ変化していないと考えているし、人間が人間である限り未来永劫変化しないと確信している。それが変化するとすれば、それは既に「人間」ではない。