大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』/坂本龍一の新譜「async」を聴く

晴。のち雨。
音楽を聴く。■モーツァルト:ピアノ・ソナタ第七番 K.309(クリストフ・エッシェンバッハ参照)。■スカルラッティソナタ K.162、K.163、K.164、K.165、K.166、K.167 (スコット・ロス参照)。スコット・ロスすばらしい。■ブラームス弦楽四重奏曲第三番 op.67 (ベルチャQ、参照)。
ウチの桜だが、一分咲きかと思ったら蕾がこれ以上存在しない。既に葉が出ているし、今年はこれでお終いらしい。こんなことは初めて。まだ老木になったわけではないと思うけれど、去年大発生した毛虫のせいか、気候のせいか。残念である。

大江健三郎『M/Tと森のフシギの物語』読了。これはおもしろかった。さすが大江健三郎という気がいままでに読んだ中ではいちばんした。特に文体的な到達点がすごい。これだけの小説を同時代に母国語で読めるという幸福を感じる。しんどかったけれどね。

M/Tと森のフシギの物語 (講談社文庫)

M/Tと森のフシギの物語 (講談社文庫)


坂本龍一の新譜である「async」を聴く。
とても驚かされた。以下に書くことはまったくの的外れかも知れない。とにかく聴いていて思ったのは、この音響世界が限りなく「死の領域」に近いこと。それはおどろおどろしいものではない。むしろ、ひたすら甘美な世界であるのは衝撃的ですらある。特にノイズの信じがたいまでの甘美さ。聴いていて、これはモーツァルトシューベルトマーラーなどが漸近した危険なタナトスの世界が連想されて仕方がなかった。もちろんこれは、こちらが坂本龍一の病や老いのことを知っているから、そんな風に感じるのかも知れない。それは否定できないが、やはり自分だけの思い込みではないような気もする。ただ、坂本龍一自身がライナーノーツで書いているように、これは自分自身にために作曲された、ひたすら個人的な世界であろう。それが永遠の世界に繋がっているがゆえに、このアルバムはもしかしたら音楽史的な意味すら持つかも知れない。それにしても、ちょっと繰り返し聴くのをためらうような、甘美にも危険な音楽になっている。以上がたんなるレトリックに堕していませんように。
async

async

アマゾンのレヴューを見てみると、別にいいのだが、坂本龍一を聴くレヴェルに至っていない人が結構いて、ふーんと思う。こういうと精神の特権階級じみて嫌味だが、まあ嫌味ながら事実なので仕方がない。こういうのが誰にでも「わかる」というのは、一種音楽に対する冒涜でもある。なに、簡単なことなのですけれどね。先入観を耳から排除すればいいだけのことなのですが…。エラそうですみません。