小山聡子『浄土真宗とは何か』

晴。のち曇。

ベートーヴェン弦楽四重奏曲第十二番 op.127 で、演奏はベルチャQ。

mathnb さんの書き込みを見ていて、平面上に与えられた任意の三点 A(x1, y1), B(x2, y2), C(x3, y3) があるとき、△ABC の内心・外心・重心・垂心を求めるという壮大なプロジェクト(?)をふと思いついた。ネット上では既に誰かがやっているだろうけれども、なかなかおもしろそうである。求め方はすべてすぐに思いついたが、これは計算が面倒なのだ。あとでやってみよう。→やってみました
県図書館。土曜日だから駐車場に余裕がない。他の曜日の方がいいな。

小山聡子『浄土真宗とは何か』読了。一読してこれはいい本だと思った。個人的には大きなきっかけにすらなったが、まあ自分のことはいい。本書は理想化されてきた親鸞以降、教団の指導者たちの実像に迫ろうとした本である。親鸞の肉親や子孫、それどころか親鸞その人においてさえ、教義の矛盾があったり当時ふつうであった呪術的行為を行ったりしたことを剔抉するなど、一種の偶像破壊の本であるが、著者の視点は決して意地悪なものではない。人の一生において果たして論理的一貫性が完全に貫かれるなどあり得ることではないと、著者はよくわかっているのである。また、これは著者がはっきり述べていることではないが、人間が矛盾的存在である以上、すぐれた宗教は必ず論理的な矛盾に近いものを含むものである。むしろ、そうでなくてはならないのである。もちろんそれは矛盾していればいいというようなものではないが、著者のいうとおり、親鸞ですら「自力」と「他力」の区別を厳密になしえなかったというのは、(これは自分の意見だが)本質的に当然のことなのだ。例えば禅などは真宗の反対で「自力」の宗教であるとされるが、いわゆる「悟り」というのは完全に「自力」であっては不可能のことであろう。逆に真宗でも、事実上は「他力」だけで宗教的達成に到れるわけでないことは、親鸞その人ですらそうであったということは本書の教えるところであり、むしろそうでなくてはならない。
 本書を読んでると、事実上の「浄土真宗」の創始者である蓮如なども、じつは優れた宗教者であったことが示唆されてくる。へんな話だが、自分は蓮如という人はオルガナイザーのように思っていたのだが、ちょっと考えなおしてみないといけないようだ。個人的な話だけれども、じつは自分の家の宗教は真宗なのだが、ウチのお寺は坊主がとてつもない俗物なせいもあって、いまひとつ真宗に入っていけなかったものである。むしろ鈴木大拙などに真宗のえらさを教えられてきたようなものであるが、本書を読んでみて、「教行信証」なども読んでみたいと思わされた。著者は自分よりだいぶ若い人であるが、いい研究者が出てきたものだと思う。

「弥陀の本願を頼みまいらする」こと自体が、一見「他力」だが「自力」でもあることは、明白ではないか。救われたい、極楽往生したいという思いは、完全に「自力」である。そこから「絶対他力」にもっていくのが、真宗のむずかしさであろう。いかなる理由があって阿弥陀仏を完全に信じきれるのか? それは何の根拠があってキリストを信じきれるのかというキリスト教の問題と似ている気がする。ただ、キリストはえらい人だったという刷り込みが可能なものの、阿弥陀仏は「仏」である以上、一般人にはキリスト以上に茫漠としていよう。実際にそのあたりが問題になったことは、本書の記述するところである。例えば信徒が阿弥陀仏ではなく、宗教的指導者を崇めることになったりなど。それは確実にあることなのだ。
だから、「宗教」は下らないか? 現代日本ではむしろその方がふつうの考え方であり、確かにその方が問題は少ない気がする。そして現代人からは「救い」ということがなくなっていき、また一方で「宗教」に走る者はそれに雁字搦めになってしまう。実際「宗教」は、かしこい人間がいちばんラクに大金を稼ぐことのできる手段であろう。なかなかにむずかしいものである。