ジグムント・バウマン『コミュニティ』

日曜日。雨。

午前中にスーパーで買い出し。

Ruby でファイル転送のコマンドを作ったりする(参照)。

ジグムント・バウマン『コミュニティ』読了。コミュニティは誰もが渇望するものである。コミュニティに悪いところは見当たらない。しかし、コミュニティを得ることはいまや不可能である――自分は本書をこう読んでしまった。実際、本書のいうところは正しいと思えるが、さて、本書には希望がほぼ一切ない。著者の希望とするところは、我々が境界の外に接触・同化する努力をすればよい、そうすればうまくいく、そんな程度のことに見えてしまう。これはほとんど分かり切った話で、どこが「希望」になるのかわからない。しかしこのような読みはまったくの誤読かも知れない。本書は自分の能力を超えているところがある。
 あと、本書から自分が勝手に学び取った(らしい)ことがある。それは、経済学的発想は地獄に繋がっているというものだ。周知のとおり経済学では、個々人が勝手にバラバラに行動しても、全体は最適解をもつという発想をする。しかし著者は、いまやその「最適解」は労働者のいわば「搾取的自己管理」につながると論じている(ように自分は読んでしまった)。かつては労働者を管理するのは資本家であり、あるいは経営者であったが、いまやそのような「敵」はいなくなった。あるいは「敵」は自分の同僚であるといってもいい。我々はそれが「最適」になるようにみずからの行動を管理せざるを得ず、その結果として自分から進んで「搾取」(このような語を著者が使っているわけではない)されるようになる。では労働者の奪われるものはなにか? それは本書は明言していないようだ。あるいは個人の複雑化した総体的なリソースというくらいしか言い様がないかも知れない。またあるいは「人間らしさ」とでもいえるかも。「自己管理」とはもちろん、フーコーの「ミクロ権力」などと通底した議論である。本書の前半で「パノプティコン」が比喩として多用されるように、著者の議論には明らかにフーコー流入しているように見える。
 しかし、本書には果たしてそんなことが本当に書かれているのか。さて、自分にもよくわからない。いずれにせよ、自分には本書はむずかしかったが、なかなかおもしろく読めた。まあ、ますます希望のないことがわかった気がするが、それもね、どうなのでしょ。

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

コミュニティ (ちくま学芸文庫)

なお、惹句や訳者あとがきで、本書の論じるのは「安全と自由のトレードオフ関係」であるとされているが、自分にはそのような(ある意味では陳腐な)観点はどうでもいい。読む際に特に注視しなかったことを追記しておこう。

最近よくいわれることに、面倒な労働は AI にまかせて、人間は「有意義なこと」をする時代が来るとか、人間しかできない「高級な」仕事(医師や弁護士などがよく挙げられる)は人間がやって、「低級な」仕事は AI がやるとか、まあそんなですよね。しかし自分には少し疑問がある。人智を超えたむずかしい知的な仕事こそ AI がやって、AI 化するまでもない(あるいは AI 化しても採算が取れない)単純な作業(コンビニの店員とか、ファーストフードの接客とか、ある種の肉体労働とか)は人間がやる、そういう時代が来ることはないのか、と。思いつきですが。