大岡信『日本の詩歌』

日曜日。曇。

寝ることと睡眠の後始末で一生終えそうな感じ(笑)。

夕方、カルコス。日曜日のせいかいっぱい人がきていた。二冊買ったけれど、帰ってきたら一冊は既に買ってあった。アホですねえ。それから中沢さんの本が文庫化されたのであとがきだけ読んできたが、軽いショック。何か目の覚めるような深さ。どうして中沢さんは最近全然書かないのだ。思考はあいかわらずフル回転しておられるのに。しかし、「ヘーゲルは観念論ではない、レーニンはそのことに気づいていた」とか言っても、いまでは誰も目に留めるものはいないか。にゃお。

大岡信『日本の詩歌』読了。コレージュ・ド・フランス講義。この人は日本の古典詩歌をドラマタイズする能力に恵まれている。本書を読んでいると、菅原道真和泉式部の姿が時を超えて彷彿としてくるようである。自分は文学音痴であり、日本の古典詩歌の教養にきわめて乏しいが、かかる優れた解説を読むとあらためてそれらのすばらしさに打たれる。特に和泉式部。何とも色っぽくてまた情熱的であり、またさみしい歌たちであろうか。男と交わったあとの髪のみだれを思い出しながら、いまは亡き男を痛切に哀哭するその和歌は、千年の時を経ても我々を感動させずにはいない。著者も指摘しているところだが、日本文学の中核であった和歌は、その多くが恋愛に関するそれであり、かつての日本人は恋愛のことばかり歌っていたといっていいほどだ。このような詩歌の歴史をもつ文化は、けだし稀なように思われる。
 それにしても、菅原道真漢詩の世界がこれほど豊かなものであるとは知らなかった。もとより自分には漢詩をすらすら読む能力はなく、その教養のなさや文化の断絶がいつも残念に感じられる。菅原道真は最晩年に九州へ左遷される以前に、いちど四国へ四年間左遷されている。将来右大臣になるような人物が、ここで民衆のつらい暮らしにまざまざと触れ、これをはっきりと漢詩にしているのだ。このようなことが日本の詩歌で歌われたことは、それ以前にも以後にもそれほど多い例はないだろう。また、政治の腐敗を歌った詩。これにも驚かされる。自分の漢詩に関する知識と感受性は貧しいものであり、それらを充分に理解することはできないが、そのような特異な詩を、道真は見事な文藻を駆使して歌ったように思われる。
 しかし、大岡氏と自分の間の断絶は何であろうか。自分の世代にあっては、自国の優れた詩歌をもはや充分に感じることができなくなっている。あまりにも教養がないのだ。まあ他人は知らないが、その思いは自分には痛切で、繰り返すが本書を読んでいて残念でならなかった。自分には、漢詩も和歌も、既に注釈なしで理解することはむずかしい。ここでもまた、日暮れて道遠しの感がある。