赤坂憲雄『司馬遼太郎 東北をゆく』

晴。
よく寝た。中で古本を売っている列車の夢を見た。なぜか大阪だったようだ。


武満徹の「オリオン」で、演奏は The Fujita Piano Trio。武満徹の曲って短いのが多いのだよね。もうおしまい?って思ってしまうことがある。まあそれはそれでいいのだけれど。


シューベルト交響曲第三番で、指揮はイーゴリ・マルケヴィチ。


ブラームスクラリネット三重奏曲 op.114(ヴィオラ版)で、ヴィオラはユーリ・バシュメット、チェロはワレンティン・ベルリンスキー、ピアノは Mikhail Muntian。この曲はもともとはクラリネットとチェロとピアノのための曲だが、ブラームス自身がクラリネットの代わりにヴィオラを用いてもよいとしているのだと思う。でも、正直言ってクラリネット版が思い出されてどうしようもなかった。ヴィオラだと同じ弦楽器のチェロとかぶってしまって、どうしてもさらに地味な感じになってしまう。ただ、慣れてくると第三、第四楽章あたりではヴィオラなりのよさを感じないわけではなかった。特に第三楽章、速めのテンポであっさり弾かれているが、ちょっと tragicomic な感じでおもしろかったりした。とにかくいい曲で、自分は好きである。


ラヴェルの「ステファヌ・マラルメの三つの詩」で、歌手はアンネ・ゾフィー・フォン・オッター。すばらしい曲。美しい。フランス語がわからないのだけが残念。

下らない「自分」など消え去ってしまえばいいと思う。凡人。

彼の戦略上というか、理論が必然的に要求するのであるが、デリダはわりと単純なことでも、ものすごく面倒な言い方をするので何だかなあという気になる。で、それをありがたがって真似する人たちがデリダを秘教的にした。東さんはデビュー作(いや、ブレイク作?)でそういうデリダをざっくばらんに語ったのであって、僕はそういうのはなかなか愉快だったと思うのだが、あいかわらずデリダは何だかよくわからない受容をされているところもある。ってまあアホの自分にはあまり関係ないのですが。
 蓮實重彦さんはデリダをバカにしている(?)けれど、デリダと関係ないのかなあ。自分にはとてもそうとは思えないのだけれど。これもまあ、バカにはわかりませんね。にゃお。

 蓮實さんはホントいろんな人をバカにするなあ。アドルノもバカにしていたよね。デリダよりも、アドルノよりもえらい蓮實重彦。さすがだ。わーすごい。

昼から県営プール。いい天気で、すごく気持ちがよかった。ピリスのモーツァルトを聴きながら車で長良川の堤防道路を走っていて、何だか自分に酔ってる系の感じ。

おっさんが横断歩道をわたる途中で iPhone(か Android か知らないが)で何かを撮ったのだが、そちらを見てもおっさんが何に感じたのかちっともわからなかった。おっさんは横断歩道をわたり終えても何度もそちらを見るのだが、自分には意味不明。何だかおかしくって笑えた。

図書館から借りてきた、赤坂憲雄司馬遼太郎 東北をゆく』読了。なかなか微妙な本で、読んでよかったと思う。著者は東北の生まれではなかったと思うが、東北に生涯を捧げておられる方だ。本書では司馬遼太郎が「街道をゆく」のシリーズで取り上げた東北に関する、著者の応答である。それは、必ずしも肯定的なものばかりではない。というか、司馬遼太郎に対して、多少回りくどい言い方ではあるが、はっきりと否定的な部分もある。しかし、全体としては司馬遼太郎に対する敬意のあふれた本であるといえるだろう。
 それにしても、「東北」というのがそれだけ語りがい、こだわりがいのある場所であるという事実が、自分を驚かせる。自分は生まれも育ちも岐阜県であるが、岐阜や中部地方にそのような含蓄はほとんどないといえるだろう。こちらでは「東海三県」という言い方がなされ、それは愛知・岐阜・三重県を指すが、三重県はそもそも関西圏に近い存在である。言葉やアクセントもはっきりと関西弁だ。また、「中部地方」という呼び方もされるが、それは「東海三県」に静岡、福井、石川、富山をあわせたものであるけれども、NHK の区切りとしか意識できないものである。とても、「東北」のような含蓄などあり得ない。というか、全国でももっとも地域的特色の薄い地方というしかない。
 そのような土地の人間からすると、本書は何か異様な感じがする。というか、本書というよりも、自分が異様なのかも知れない。岐阜県というといちばん有名なのは高山であろうが、そもそも高山が岐阜県にあることを知らない人も多いだろう。高山以外だと、郡上八幡や温泉地である下呂くらいであろうか。それ以外は、地元はとにかく長良川の鵜飼と織田信長ばかりである。織田信長は注釈が必要だろうか。なぜ岐阜で織田信長なのかというと、そもそも「岐阜」という地名は信長が採用したものであり、また信長の生涯では岐阜に屋敷を構えていた期間がいちばん長かったのだ。有名な「天下布武」というのを言い出したのも、信長が岐阜に住み始めてからである。…
 とどうでもよいことを書いた。まあ本書の中身については、要約できるような本ではないから書かない。自分は家族の観光旅行で何度も東北の地を踏んでいるが、それを思い出しながらの読書であったと、個人的なことで結んでおこう。ふと、本書でも言及されている、三内丸山遺跡のことが思い浮かぶ。三内丸山での縄文人たちの生活は、縄文中期に1000年を超える長さをもっていたと記憶している。住みやすそうな、すばらしい土地であった。縄文時代の平均寿命は30歳くらいであったが、いまの我々の生活とどちらが幸福だったのだろうと何となく思われて仕方がない。

司馬遼太郎 東北をゆく

司馬遼太郎 東北をゆく

安倍首相は国連総会における演説で北朝鮮に対しては「対話ではなく圧力だ」と言い切ったらしい。自分の感覚がおかしいのかも知れないが、もういい加減にしてもらいたい。外交カードの選択肢を自分から減らすバカが、いったいどこにいるのか。ってここにいるのだ。何でも、トランプ大統領が演説の中で日本のいわゆる「拉致被害者」に言及したことに対し、わざわざ感謝しにいったともいう。まあそれはどうでもいいが、トランプ大統領の忠実な犬であることを表明しての「圧力しかない」であるとすれば、なさけないとしか言いようがない。ってパヨクは思うのだが、右翼はこれを見て恥じないのか。いったいどちらが国賊なのか。パヨクなのか。

しかし、どこかの指導者たちは圧力をかければ北朝鮮が屈すると思っているようだが、その可能性がないとはいわないが、まあ 5%くらいのものだと思う。いや、何の意味もない床屋政談はもうやめよう。えらい人たちが世界平和を守ってくれるにちがいない。ああ、安心した。さっすが安倍首相。バカは反省します。

いやまあしかし、たぶん大丈夫だ。いままでも大丈夫だったから、今度もたぶん大丈夫なはず…。って大丈夫でないって、いったい何だろう。

しかしどこかのバカは北朝鮮がいうことをきかなかったら「完全に壊滅」させるとか何とか言ったが、つまりは「核兵器を撃ちこむぞ」って言っているわけだけれども、北朝鮮にいるのは幼稚な坊とその取り巻きだけではないんだぜ。民衆がいるのだ。まあカスの脅しではあろうが、それにしてももはや外交もなにもあったものではない。もうこれだけでいまの世界が終っていることがわかる。

ああもう、素人くさいことをいうのがイヤになってきた。かしこい人たちが勝手にどうにかすればよいのだ。それにしても下らない世界である。

もう今日はあとできるだけ下らないことをして過ごそう。(PM08:46)