アレックス・ロス『20世紀を語る音楽 2』

曇。

C言語での一文字入力(ウェイトなし)って、標準入出力関数にないのだな。OS 依存か…。


モーツァルトのピアノ・ソナタ第九番 K.311 で、ピアノはクリスティアン・ツィマーマン。

昼から県図書館。「新潮」7月号の浅田、東、千葉鼎談を読む。浅田さんも還暦か。中身は東さんがアグレッシブで押している感じ。浅田さんも色いろ言っているけれど、東さんのいうことを基本的に肯定するしかないように見える。千葉さんは存在感がない。まあ、三人ともすごい秀才で、とてもじゃないけれどかなわないが、では現在の閉塞的状況に対して有効策があるかというと、地道にやるしかないという結果になっているように見える。浅田さんがインターネットに過剰に期待しているように見えるのは意外だった。逆に東さんは昔はネット肯定派だったようだけれど、いまは結構懐疑的である。東さんは自分の「観光客の哲学」しかないという我田引水。まあそうなのかも。いずれにせよ、理論の有効性が疑われる時代だ。それにしても、三人とも自分自身が mass であるという自覚がまったくなく、「大衆」に対しては「対象」でしかないというのはどういうものなのだろうか。いやまあ別に、知識人ってそんなものなのだろうな。刺激的な鼎談ではあったけれど、不毛さもまた感じた。

浅田さんが「自分は下部構造決定論で、古い唯物論者だ」というのに対し、東さんが下部構造決定論はいまやおかしくないかと否定的だったが、このあたりはおもしろい。確かにインターネットの時代は、情報をもっている人間が金をもっているとは限らないというのは正しい気がする。情報をもっているのはむしろ暇人だという東さんの指摘はかなり正しい。死ぬほど働いて金をいっぱいもっている人間は、いまやじつにつまらない金の使い方しか出来ないことが多い。いや、そりゃいまでも金は強いのだけれど、どうも金の使い方がわからなくなっている。せいぜい例えば贅沢な長期外国旅行? 美術品を買う? おいしい店でグルメ? で、過労死したり精神を病んだりしても仕方なかろう。お金のいちばんの長所は、自己肯定感をたっぷり与えてくれることであろう。まあ突き詰めればそこなのだと思う。

わたくしには大してお金はありません。

図書館から借りてきた、アレックス・ロス『20世紀を語る音楽 2』読了。第一巻を読み終えて(参照)からだいぶ経ってしまったが、ようやく読み終えた。ある方面から見た20世紀音楽の「全体像」を捉えようとした野心的試みで、大変な量の情報が詰っている。なのに、読みやすさを失っていない。硬い本なのに、世界で20万部以上も売れているというだけでも特異である。
 さて、本書のモットーともいうべきは、もはやクラシック音楽とポピュラー音楽という捉え方は止めるべきだというものであり、本書ではそれが実践されていて、いわゆる(クラシックの)「現代音楽」と、例えばビートルズ、例えばモダンジャズ、例えばデヴィッド・ボウイらが同列に扱われている。これは現代においてむしろ誠実な態度だといえる。けれども、著者が「現代音楽」の専門的な訓練を受けており、音楽を分析的に、理論的に語りうるというのは、クラシック音楽のもたらしたものだといえばいえるであろう。なお、自分は不誠実な人間なので、あいかわらず「クラシック音楽」と「ポピュラー音楽」という考え方を捨てていないことは記しておきたい。それは、そのどちらかしか聴かないという意味ではないけれども。
 幼稚な感想を書いておけば、本書を読むとブーレーズという人(彼の音楽ではない)がイヤになるかも知れない。自分は多少そうなった。また、ブリテンはもっと聴いてみたくなった。本書におけるブリテンの「セレナード」の記述は、我が意を得る。「ピーター・グライムズ」は是非聴いてみたい。それから、本書後半はアメリカの音楽事情がメインである。あまり聞いたこともないような大勢の(クラシック)作曲家の説明が延々と続く。それに対し、日本人の音楽家は武満徹がほんの少し取り上げられているだけである。ロスがアメリカ人であることもあり、自分はそれが不当な扱いだとはいわない。実際、武満以外の日本人作曲家は取るに足りないのかも知れない。しかし、自分は日本人作曲家たちはなかなかおもしろく聴けている。まあ、自分だけなのかも知れない。
 とにかく、本書は野心的な労作であり、成功している。音楽の好きなすべての人たちに勧めたい。

20世紀を語る音楽 (2)

20世紀を語る音楽 (2)


シューベルトの「四手のための幻想曲」ヘ短調 D940 で、ピアノはベンジャミン・ブリテンスヴャトスラフ・リヒテル


プーランクスターバト・マーテル(1950)で、指揮はマタイアス・ベッケルト、演奏は Monteverdichor Würzburg。いい曲だな。