こともなし

曇。
昨晩は中沢さんが訳した『鳥の仏教』を読んで寝た。


スカルラッティソナタ K.11、K.159、K.322、K.9、K.27 で、ピアノはアルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ

大垣。ミスタードーナツ大垣ショップ。

岩盤を割るのにとても苦労した。いまとなってもこういうことがあるとは。まだ上手くいったかはわからない。生きていくというのはそれだけでしんどいことだな。いい経験になった。

夜、仕事。


ブラームスの間奏曲集で、ピアノはグレン・グールド。あるブログの自殺念慮の記事を読んで聴きたくなった。本当は自分で弾けるなら弾きたい気分だが、残念ながら僕は如何なる楽器も弾けない。かならずしもグールドの演奏がいまのベストというわけではないけれど、まあこれしかあるまい。といって僕には自殺念慮はないのだが、早死するのはあまり好ましく思えないけれど、長生きするのもどうかという感じである(そういいながら、ジジイになったらこの世に未練たらたらなのかも知れないが)。少なくとも、自殺念慮の気持ちはすっと自分の中に入ってきて、決してわからないものではない。ただ、浅田彰さんと同じく、親が生きているうちに自殺する気にはなれないが。(そういうところが、自分が浅田さんに共感できる理由のひとつでもある。あの人は偉大なる常識人でもあるのだ。)若い頃から、生きることそのものがつらいところが、自分にはあったと思う。まあどうでもいいよね。
 なおこのグールドの演奏であるが、CD そのままではなくて、何曲かカットしてある。どのみち違法行為ではあって、全部聴きたい方は CD を買うとよいだろう。おそらく録音当時グールドはまだ20代だと思うが、まさしく天才的な演奏である。不朽の録音というべきであろう。グールド自身は、「セクシーな」演奏だと言っていたな。そのとおりであろう。そういや浅田さんは、ブラームスみたいな下らない音楽は聴くに堪えなくて、この間奏曲くらいしか聴けないようなことを仰っていたな。僕はブラームス大好き人間であるが(特に室内楽が好きだ)、いかにも浅田さんらしくて、気に入っている発言である。


プロコフィエフのピアノ協奏曲第三番 op.26 で、ピアノはマウリツィオ・ポリーニ、指揮はヘルベルト・アルベルト。動画の記述を信じるならば、ポリーニ 25歳の誕生日におけるライブ音源である。まだ先月おしまいにアップされたばかりの動画だ。ちょっと聴いてはというか、見てはいけないものを見てしまった気分である。この曲はこれまで錚錚たるピアニストの演奏で聴いてきたが、それらのどれも比較にならない悪魔的なそれだ。まさしく浅田さん(またですか)の言うとおり、ポリーニは最後のピアニストであろう。「完璧に弾く」という方向性で、今後これ以上のピアニストが出ることは考えられない。もちろんそれは楽譜どおりに弾いているとかそういうレヴェルのことではなく、演奏芸術の究極の地点という意味である。確かに技術はものすごい、というか、この難曲において、何の技術的な制約もない。そもそも手癖というのがまったくないのだ。あらゆる場面で、曲の要求するとおりのパフォーマンスを見せ、感情のレヴェルでも適切な感情のコントロールが完璧に行われている。そして曲構造をクリアに見せつける明晰性。曲の現前化として、完璧なのだ。この悲劇的なまでの完璧さに、感動しないではいられない。しかし、よくポリーニの演奏を評して「冷たい」だとか「機械のよう」だというそれがなされるが、それはポリーニというピアニストがたぶんわかっていないのである。これは人間のたどり着き得る極致のひとつだと思われる。