高橋源一郎『非常時のことば』/西村賢太『随筆集 一日』

晴。いい天気だ。
ものすごく幼稚な汚物を吸い込んだので、消化するのに丸々二日間かかった。世の中には色んな人がいるものだな。凡夫一生修行。

たぶん水準点か何かだが、ぼろぼろになっている。ドラッグストアまで散歩してきたのだが、夕日を浴びた世界は美しかった。自動車だけ邪魔くさいなと思う。フランクルの『夜と霧』の中に、強制収容所での絶望が日常となった日々のある午後、落日が壮絶に美しく、誰かが「世界はなんて美しいんだ」と漏らすのだが、それは誰の心をもまったくなぐさめることもなく、世界だけがただひたすらに美しいという場面があったと思う。そもそも『夜と霧』は、人間にはまともな人間とそうでない人間しかいないというような、身も蓋もない真実がさらりと書かれている本だったが、このシーンも印象的だった。いまの僕はそんなひどいことはなく、美しい世界はそれなりに自分の心を賦活してくれたように思う。なお、そのまだ田舎っぽさが残っている風景もいつまであるのかわからなくて、一応そこには大きな道路が通る計画がある(僕の町内の県会議員が運動しているらしい)。少しづつ少しづつ、生きるための「酸素」がなくなってきているような気がする。
超高層マンションの一室で育った子供の無意識とか、どうなっているのだろうなと思う。もしかすると、彼ら彼女らは、僕がここで言っているようなことはわからないかも知れない。あるいは過度に感傷的と思われるような予感がする。いや、そもそも東京で生まれ育てば、それに近いのかな。考えすぎか。

落ち穂拾いの感想文 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
ここで山形さんが述べている『移民の経済学』の感想で、「最適移民数とかを考えてもらって、それに基づいていまは多すぎるとか、いまはもっと増やしていいとか言わないと、まともな議論にならないわ。移民がいいか悪いか、というデジタルな話ではないはず」というのがあって、これは確かにいちばん理性的で合理的な発想だと思った。で、最適移民数をもう超えてしまったからあとは受け入れられないので、残りの人は死んでくださいね(などとは山形さんは言っていません)、ということになるのは、まあ仕方がないことなのだろう。僕などにはこうしたことの判断は、むずかしすぎて無理である。ここからはこれと関係ないのだけれど、経済学では(思いっきり単純化すると)最大多数の最大幸福という、いわゆる「功利主義」というのを基本にするのだと思う。正しくは功利主義は経済学ではないのだが、どうもそれっぽくなりがちなところもあるだろう。100人が不幸になってそのおかげで1億人が very happy になれるなら、そしてそれがいちばん合理的なら、100人は不幸になってくださいというものである。まあそれは穏当な考え方だとは思うが、どうも自分が100人の方に入りそうになってくると、それはつらいのではないかとも思う。そういうことを言うと、いやいや、経済学ってのは限られたリソースの配分を考える学問ですから、それはちがいますと反論されてしまうわけだが、本当にお題目どおりになっているのか知らん。まあ自分にはよくわかりません。
上とはまたちがうのだけれど、格差があった方が最終的には誰にとっても得であるとか、戦争をした方が経済的に合理的だとかいうことは、経済学で正しいとされても別におかしくないのだよね(実際にそれが正しいかどうかはまた別の問題ですよ)。それとはまたちがうけれど、核兵器が戦争を抑止するというのも合理的とされ、これはその正しさが実証されているそうである。こういうのはむずかしいな。そういうことは気にせず、みんな happy に生きようよってのがいちばん正しいのだろうね。ホント、自分のような硬直したサヨクにはまったくむずかしい話である。
たぶん、不幸になった100人のことを考えるのが文学なのかも知れないな。そういう100人がなくなることは決してないので。いま文学がなくなってきているのは、そういう100人に対する視線がなくなってきているということなのかも知れない。でも、それだけが文学というのもちがう気がするしなあ。

図書館から借りてきた、高橋源一郎『非常時のことば』読了。母から廻してもらった本。どうも既読の気がしたが、ブログを検索してみてヒットしなかったので、まだ読んでいなかったらしい。「非常時」というのは2011年の震災と原発事故のことである。僕の信頼する高橋源一郎さんの本なのだが、活字が頭に入ってこなくて困った。インターネットの見すぎで、感覚が麻痺しているのかも知れない。内容は、いつも源一郎さんが述べているようなことで、その「非常時」版みたいな風に感じた。本書の中で頭に入ってきたのは、川上弘美さんの短編「神様(2011)」と、リンカーンのいわゆる「ゲティスバーグ演説」で、どちらも全文が読める。特に後者にはハッとさせられたが、その理由はまったくわからない。誰もが知った気になっている、手垢に塗れた有名な演説であるが、こんなに短いものだとは思いもよらなかった。そして、演説時にはまったく何の反応もなかったというのがおもしろい。ただ、たまたまこれを書き留めていた新聞記者がいて、それが新聞に掲載されると爆発的な反響になったというのである。だから、この演説はもしかしたら歴史から完全に消え去っていた可能性もあるわけで、何か不思議なものを感じた。
 なお、本書には石牟礼道子の『苦界浄土』についての文章があるが、僕の知っているところではこれはノンフィクションではなく、ほぼフィクションであり、フィクションを通じた「真実」の探求であった筈である。源一郎さんがそれを断らず、あたかもノンフィクションとして読むような書き方をしているのはちょっと意外だった。もっとも、これが小説であることは断るまでもない、当り前のことだと源一郎さんは思っていたのかも知れない。

なお、荻上チキの文庫解説はおざなりな文章で、まったく頭に入らなかった。ご免なさい。そうだ思い出した、源一郎さんは震災後に『恋する原発』というじつに下らない小説を書いたのであったが、あれは勇気のある行為だったといまでも畏敬したくなる。これは反語ではありません。小説家の「本能」のすごさを思い知らされた小説だった。

図書館から借りてきた、西村賢太『随筆集 一日』読了。おもしろかった。著者は自分と同い年で、同い年の小説家としてはほとんど唯一の本物だと思う。多少古風な文体が著者の血肉と化しているのがすばらしいし、文学とはこんなにおもしろいものかという、純文学への信頼がよみがえってくるようだ。僕は私小説はよくわからないのだが、気合の入った私小説というのは真剣による勝負みたいな感じがする。とても上から目線で読めるようなものではない。隙を見せたら直ちにバッサリやられそうである。
随筆集 一日

随筆集 一日